第6話 春霞の旧校舎と、静かな逃げ道 3
昨日何があったところで、朝は普通に来る。駅には人がいて、電車には昨日と同じようにいくつもの匂いが重なっている。新学期だからといって、一晩で人間の数が減ることもない。
隣を歩く澄もいつも通りだった。
「昨日よりは平気そう?」
「今のところは」
「そっか」
澄はそのまま歩調を戻した。
教室へ入る頃には、家を出た時より呼吸が浅くなっていた。それも昨日と大差ない。
違ったのは、柚木の方だった。正確には、違わなかった。
教室の中央で、水瀬と小坂を相手に笑っている。昨日と同じ香水。明るい声。話に合わせてよく動く表情。俺と話したせいで何かを変えた様子はない。それでいい。
昨日伝えたのは、近いときついという俺の都合だけだ。香水をやめろとは言っていない。席へ向かう途中、柚木がこちらへ歩いてきた。通路ですれ違うだけだ。
そのはずだったが、俺の少し手前で柚木の足が緩んだ。俺が窓側へ寄るより先に、向こうが半歩だけ外側へずれる。
「おはよ、神崎」
「おはよう」
昨日までより少し広い間隔を残して、そのまますれ違った。香料は届く。ただ、呼吸を浅くするほどじゃない。
振り返ると、柚木はもう水瀬に何か言われて笑っていた。一度伝えれば、対応するタイプらしい。それだけ覚えておく。
一時間目が終わると、教室のあちこちで椅子が鳴った。俺は席を立たず、次の教科書だけ出す。数席向こうでは、水瀬が机に肘をついて何かを訴えていた。
「だから絶対あの問題ひっかけでしょ。あれ初見で分かる?」
「莉愛、終わってから言っても点は増えないよ」
小坂が冷静に返す。
「分かってるけど言いたいの!」
「じゃあ言えばいいじゃん。玲奈、聞いて」
「なんであたしが苦情窓口なの?」
そう言いながら、柚木は笑っていた。
水瀬の話を途中で切るでもなく聞き、小坂が横から何か足せばそっちへ顔を向ける。途中で前の席の女子が話に入ってきても、流れは止まらない。
「それ、あたしも迷った。ていうか先生の言い方ずるくなかった?」
「でしょ?」
「でも莉愛、昨日『余裕』って言ってたよね」
「それ今関係ある?」
「あるある。めっちゃある」
水瀬が抗議して、小坂が吹き出す。柚木も笑った。昨日見ていたのと同じだ。
相手に合わせている部分はある。けれど、笑う必要のないところまで笑っているわけじゃない。自分から話題を足すし、気になれば質問する。会話が途切れそうになれば拾うが、面白ければその前に笑っている。
ずっと嫌なのに、笑顔だけ作っている人間には見えない。人といること自体は、好きなんだろう。なら、昨日まで引っかかっていたものの半分くらいは、それで説明できる。
残りは知らない。
二時間目のあとの休み時間だった。前の方で、声が重なった。
「え、でも前に出せばいいって聞いたけど」
「俺はまとめて持ってこいって言われたんだけど」
机の上には、さっきの授業で使ったワークシートが何枚か積まれている。女子の一人は自分の紙を持ったまま、前の席の男子を見ていた。
「先生、授業終わる前に前に出してって言ってたよね?」
「俺はそのあと、集まったら持ってこいって言われたんだって」
「じゃあ、ここに出すんじゃないの?」
「だから俺が聞いたの何なんだよ」
怒鳴るほどではない。どちらも自分の聞いた話に自信があるせいで、言い方が少しずつ固くなっている。周りの何人かも会話を聞き始めた。
俺なら、教師が実際に何と言ったか確認する。けれど、その確認先が今ここにいないらしい。
「待って待って」
柚木が立ち上がった。面倒そうにではなく、すぐ終わる話を見つけた時みたいな軽さだった。
「それ、二人とも合ってるんじゃない?」
「え?」
「どういうこと?」
柚木は二人を交互に見た。
「前に出してって言われたの、授業の最後でしょ?」
「うん」
「で、まとめて持ってこいって言われたのは、そのあと?」
男子が一度考える。
「……片付けてる時」
「じゃ、それじゃん」
柚木が机の上の紙を指した。
「みんなはここに出す。集まったやつを最後に持ってく。話が一個なのに途中で切れてただけでしょ」
女子が手元の紙を見る。男子も積まれたワークシートを見る。
「ああ……そういうこと?」
「たぶんね。これで違ったら先生の伝え方が悪いってことで」
「人のせいにした」
「平和のための責任転嫁です」
柚木が笑うと、女子の方も肩の力を抜いて、「じゃ、ここ置いとくね」と紙を重ねた。二人の言い合いは、そこで途切れた。
柚木は集まった紙の端を一度揃えただけで、持っていこうとはしない。男子も「集まったら俺持ってくわ」と返し、周りも次の話へ移る。たぶん、あれで正しい。
誰かが悪かったことにしなければ、それ以上引っ張る必要もない。柚木は席へ戻りながら、水瀬に「危うく休み時間が裁判になるとこだった」と言って笑った。
「大げさ」
「でも解決したからよくない?」
「はいはい、玲奈えらい」
「もっと心こめて?」
軽口を返す声に、不満はない。むしろ、うまく収まったことを喜んでいるように見えた。そこまでなら、何もおかしくない。
柚木は人と話すのが好きで、人の間に入るのも上手い。さっきのやり取りでも、二人が何を聞いたかだけじゃなく、いつ聞いたかまで拾っていた。俺が拾いやすいのは、今ここにある差だ。
声が変わった。呼吸が速くなった。匂いが濃くなった。柚木が見ているのは、もう少し前から続いているものらしい。
誰が誰に何を言ったか。どこで話が切れたか。誰が今、引くに引けなくなりかけているか。
俺には、そっちの方が面倒だ。
よくあれだけ拾えると思う。次の授業の準備をしようと教科書へ手を伸ばした時だった。教室のざわめきの向こうで、長い息が一つ落ちた。
顔を上げる。柚木だった。
さっきまで水瀬と話していた姿勢が、わずかに崩れている。背もたれへ体重を預け、机の上に置いた手から力が抜けていた。
「玲奈、次って――」
水瀬に呼ばれる。
「ん? あ、ごめん。何?」
返事まで、一拍。ほんのそれだけだ。水瀬は気にした様子もなく話を続ける。
柚木もすぐにいつもの調子で返した。倒れそうなわけじゃない。顔色が悪いわけでもない。
さっきの息だって、普通のため息と言えばそれまでだ。引っかかったのは、そこだ。少し前にはなかった。
疲れた。最初に浮かぶ説明はそれだった。
珍しくはない。人と話せば疲れることもあるし、朝から授業を受けていれば眠くもなる。今日たまたま調子が悪い可能性もある。けれど、それだけで片づけると、さっきまでの柚木と噛み合わない。
水瀬や小坂との会話は楽しんでいたし、あの小さな行き違いにも自分から入った。うまく収まった時も、少なくとも嫌そうではなかった。人付き合いそのものが嫌で、全部無理している――では説明しにくい。なのに、その直後だけ力が抜ける。
単純に、ああいうことをすると疲れるのか。今日はたまたまなのか。
場を見ている間だけ、何か別の負荷が増えているのか。それとも、俺がまだ知らない条件があるのか。
どれもあり得る。今のところ、どれか一つを選ぶ材料はない。だから見ていた。
助ける必要があるようには見えない。聞きに行く理由もない。説明のつかない差が残ったから、いつもより長く。
柚木が顔を上げた。まっすぐ、目が合った。




