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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
春の匂いと、香水の鎧

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第5話 春霞の旧校舎と、静かな逃げ道 2

 作法室へ来てから、どれくらい経ったのか。湯呑みの中身が半分になる頃には、教室で浅くなっていた呼吸もほとんど元へ戻っていた。桜小路先輩は相変わらず香道具を整えている。澄は水屋と畳の間を行き来し、長谷川先生はいつの間にか書類を閉じて茶を飲んでいた。


 俺は何もしていない。今のところ、それで困る人間もいなかった。


 引き戸の向こうから、控えめな足音が近づいてきた。一度止まる。それから、戸が開いた。


「失礼します。香道部って、ここで合ってますか?」


 入ってきたのは、見覚えのない女子だった。制服からすれば一年生だろう。


「ええ。いらっしゃい」


 桜小路先輩が立ち上がる。


「見学かしら?」

「はい。星野くるみです。体験もできるって聞いて」


 少し緊張はしているらしいが、声は明るい。星野は部屋を見回し、最初に桜小路先輩へ、それから香道具へ視線を向けた。俺のところでは止まらなかった。


「どうぞ。今日は堅いことはしないから、気楽に見ていってちょうだい」

「ありがとうございます」


 澄も水屋から出てくる。


「荷物、こっちに置けるよ」

「ありがとうございます、先輩」


 星野は素直に従った。そのまま俺の前を通ったが、軽く会釈をしただけだった。俺も同じように返す。


 会釈だけで、会話にはならない。新入生が一人増えただけだ。


 桜小路先輩は、いくつかの道具を前にして星野へ簡単な説明を始めた。


 本格的な作法を一から教えるわけではない。香りを楽しむ文化があって、そのための道具があって、扱い方にも理由がある。今日触れるのは、その入口だけらしい。


「へえ……思ってたより、ずっと静かなんですね」


 星野が道具を覗き込む。


「もっとこう、部屋中いい匂い、みたいなの想像してました」

「香りが強ければいい、というものでもないのよ」

「そうなんですね」


 返事は軽いが、聞いていないわけではない。分からないことは尋ねるし、桜小路先輩が答えると、ちゃんと手元を見ている。


 途中で澄が茶と菓子を運んできた。その瞬間だけ、星野の視線が明らかにそっちへ引っ張られた。すぐ桜小路先輩へ戻る。


 少しして、また菓子へ行く。


 戻る。


 また行く。


 分かりやすい。


「星野さん、先に食べても大丈夫だよ」


 澄が言った。


「えっ」


 星野の視線が止まる。


「そんなに見てました?」

「うん。ちょっとだけ」


 澄が笑う。


「……じゃあ、お言葉に甘えます」


 一瞬だけ取り澄ましたあと、星野は菓子を受け取った。口に入れた直後、表情が素直に緩む。


「おいしい……」


 今度は取り繕うのが一拍遅かった。俺は湯呑みに口をつける。和菓子が好きなんだろう。


 体験が一段落した頃、桜小路先輩がこちらを見た。


「そういえば、まだ紹介していなかったわね。星野さん、こちらは二年の神崎くん」


 ようやく星野の視線が俺で止まった。


「あ。先輩だったんですね」

「一応」

「一応ってあるんですか?」

「二年なのは間違いない」


 星野が少し笑う。


「星野くるみです。よろしくお願いします、神崎先輩」

「神崎慧。よろしく」


 そこで終わると思った。星野は終わらせなかった。


「先輩、ずっと静かでしたね」

「休んでたから」

「香道部なのに?」

「香道部でも休む時はあるだろ」


 部屋の端から長谷川先生が頷いた。


「あるぞ」

「先生が言うと説得力ありすぎません?」

「褒め言葉として受け取っとく」


 星野がまた笑った。さっきより肩の力が抜けている。話しかけてくる割に、こちらへ何かを求めている感じもしない。


 ただ、反応を見ている。そういう視線だった。


「でも神崎先輩、意外と普通に話してくれるんですね」

「話しかけられたからな」

「もっと無愛想な人かと思いました」

「今もそんなに愛想はないだろ」

「それ、自分で言うんですね」


 少し考えるように目を細めてから、星野がこちらへ身体を向けた。何か思いついたらしい。


「そういえば先輩」

「ん?」

「さっき、私のこと見てましたよね?」


 声の調子が変わった。意味を含ませるような言い方。


「見てたな」


 星野が一瞬だけ目を丸くする。否定されると思っていたんだろう。すぐに笑みを戻した。


「へえ。ちゃんと見ててくれたんだ」

「和菓子ばっかり見てたから」

「……そこですか?」

「三回くらい視線戻ってただろ」


 星野の口元が止まった。


「数えてたんですか?」

「目に入っただけ」

「神崎先輩って、女の子見るところちょっと変じゃないですか?」

「星野が分かりやすかっただけだと思う」

「むう」


 小さく漏れた声は、さっきまでの余裕のある調子とは違った。それでも引く気はないらしい。星野はすぐに口元を持ち上げた。


「じゃあ、近くで見たらもっと分かるんですか?」


 そう言って、自分から一歩近づいてくる。止める理由はない。


 軽い香り。さっきまでより近い呼吸。


 数秒もしないうちに、その間隔が少し短くなった。体温が上がった分だけ、肌から立つ匂いもわずかに変わる。


 ごく軽い発汗。俺は星野を見る。


 表情だけなら、まだ余裕そうだった。身体の方はそうでもない。


「星野」

「はい?」

「無理して近づかなくてもいいぞ」


 笑みが止まる。


「……はい?」

「さっきより呼吸速いし、汗も増えてる。緊張してるなら離れた方が楽だろ」


 数秒。


 星野は完全に動かなかった。


「…………え」


 ようやく声が出る。さっきまでより、だいぶ小さい。


 一歩。星野が後ろへ戻った。


「ちょ、ちょっと待ってください」

「何を」

「普通そこまで言います?」

「星野が近くで見たら分かるかって聞いたんだろ」

「そういう意味じゃなくて!」


 声が高くなる。俺にはその違いがよく分からない。


「じゃあどういう意味だ」

「それを説明させるんですか?」

「聞いてるのは俺だからな」


 星野は口を開きかけて、閉じた。髪に触れようとして途中でやめ、今度は俺から半歩ほど距離を取る。それでも逃げはしなかった。


「……神崎先輩って、ずるいですね」

「何が」

「なんでもないです」

「そうか」

「そこで終わるんですか?」

「なんでもないんだろ」


 また黙る。今度は数秒後、星野の方が先に吹き出した。


「もういいです。今日のところは私の負けってことで」

「何を競ってたんだ?」

「……次はそういう顔できなくしてみせますから」

「今どういう顔してる?」

「そこからですか?」


 どうやら俺の知らないところで何かが始まって、俺の知らないまま一回終わったらしい。よく分からない。


 その後、星野はまた桜小路先輩のところへ戻った。道具について質問し、澄の出した茶を飲み、残っていた菓子を見て一瞬だけ迷ってから、二つ目にも手を伸ばした。今度は隠さなかった。


 帰る頃には、最初より部屋の中にも馴染んでいた。


「今日はありがとうございました」


 引き戸の前で、星野が頭を下げる。


「すごく面白かったです。まだ全然分からないですけど……また見に来てもいいですか?」

「もちろんよ」


 桜小路先輩が答える。


「いつでもいらっしゃい」

「はい」


 星野は嬉しそうに頷いた。


 それから俺を見る。


「神崎先輩も、次は覚悟しててくださいね」

「だから何の?」

「次までに考えておきます」

「今決まってないのかよ」

「細かいことはいいんです」


 最後だけ妙に強引だった。星野が去り、引き戸が閉まる。作法室に元の静けさが戻った。


 一つだけ気になる。次に何をされるのか分からないまま覚悟だけ要求されるのは、少し理不尽だと思う。

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