第4話 春霞の旧校舎と、静かな逃げ道 1
最後の授業が終わった瞬間、教室の空気が動いた。椅子を引く音。鞄のファスナー。部活へ向かう声。机の間を人が行き交うたび、一日かけて溜まった空気が掻き回される。
具体的な匂いを拾うまでもなく、密度だけで十分きつい。午後の終わりには浅くなっていた呼吸が、人の動きに合わせてさらに窮屈になる。
「神崎、じゃーな」
遠山が鞄を肩に掛けた。
「部活か?」
「おう。今日いきなり走らされそうで嫌だけどな」
言っている割に足取りは軽い。
「頑張れ」
「他人事だと思って」
実際、他人事だった。遠山は笑って教室を出ていく。離れたところでは、柚木が水瀬と小坂に何か言われて笑っていた。
昼休みに俺の机の前にいた時と変わらない。俺と話したからといって、その後ずっとこっちを気にする理由もないらしい。それでいい。
「慧くん」
澄が鞄を持って俺の席まで来た。
「私、先に行ってるね」
「ん」
「今日はちょっと疲れてるでしょ。急がなくていいよ」
「分かった」
それだけ聞くと、澄も教室を出ていった。教室から人が減っていく。それでも、すぐには動かなかった。
廊下にはまだ、部活や帰宅へ向かう生徒が溢れている。今そこへ混ざるより、五分残った方が楽だ。
スマホを見るほどでもなく、ぼんやり窓の外を眺める。春の日はまだ高い。
校庭の方から声が上がった。誰かが笑う。その音が少し遠くなった頃、俺は鞄を持って立ち上がった。
廊下へ出る。さっきよりはましだった。本棟を移動する間も、人はいる。すれ違うたび新しい匂いが流れてくる。階段では上と下から別々の空気が来る。
ただ、教室みたいに逃げ場がないわけじゃない。人の少ない方を選ぶ。
流れの切れたところで階段を下りる。本棟を抜け、旧校舎へ向かう。
境目を越えただけで、世界が突然静かになるわけじゃない。人の声はまだ聞こえる。どこかで扉の閉まる音もした。
古い木造校舎には、本棟とは違う建物そのものの匂いもある。
それでも、歩くほど楽になった。すれ違う人間が減る。誰かが通るたび新しい匂いの一式が増えることもなくなる。
奥へ進む。
足音が減る。
人の気配が減る。
拾う必要のある情報が、一枚ずつ剥がれていく。呼吸が少し深くなった。ここまで来ると、移動自体が休憩みたいなものだった。
早く家へ帰る選択肢もある。けれど今の状態でまた駅へ向かうより、一度ここで戻した方がいい。
旧校舎の最奥。『香道部』と書かれた木札の前で足を止める。引き戸を開けた。
畳の匂い。湯気と茶。その奥に、ごく薄い香材の気配。
無臭ではない。香道部なんだから、むしろ香りはある。
「お疲れさま、神崎くん」
先に気づいたのは桜小路先輩だった。香道具を前に、何かを確認している途中らしい。
「お疲れさまです」
水屋の方には澄がいる。俺が来る前から茶の準備をしていたらしく、手は止まらない。
「慧くん、おかえり」
「ただいまって場所でもないだろ」
「じゃあ、お疲れさま」
「そっちで」
澄が笑った。部屋の端では長谷川先生が書類を見ている。顔を上げて俺を一度見た。
「神崎、今日はだいぶ使い切った顔してるな」
「何をですか」
「体力とか気力とか、そのへん」
「だいたい合ってます」
「なら座っとけ。ここで倒れられると顧問の仕事が増える」
「倒れません」
「それが一番助かる」
また書類へ視線を戻した。桜小路先輩は手元の準備を続け、澄も水屋から戻らない。俺は空いている場所へ座った。
「今日は見学の人が来ても大丈夫なように、少し準備をしているの」
桜小路先輩が手元を動かしたまま言う。
「神崎くんは、先に休んでいてちょうだい」
「手伝わなくていいんですか」
「今は大丈夫よ。それに、その顔の後輩へ仕事を増やすほど困ってはいないわ」
長谷川先生が書類から顔を上げないまま口を挟んだ。
「桜小路は神崎が来る前から普通に回してたぞ」
「見れば分かります」
「ならよし」
何がよしなのかは分からない。澄が湯呑みを一つ、俺の前に置いた。
「はい」
「ありがと」
「熱いから気をつけてね」
それだけ言って、また水屋へ戻る。いつものことだった。湯呑みに手を添える。
すぐには飲まず、一度息を吸った。畳。茶。人間が三人。香材。情報はちゃんとある。
ただ、教室と違って、それぞれの輪郭が勝手にぶつかってこない。誰かが立つたび三十人分の空気が動くこともない。温度も湿度も安定している。
何より、人が少ない。香りの数がゼロだから楽なんじゃない。処理できる量に収まっている。
しばらく座っているうちに、呼吸が元へ戻ってきた。そこで初めて気づく。今日は、いつもと少し違う。
畳と茶、その奥。普段ここに残っているものとは別の、細い香りの層がある。
強くはない。むしろ教室にいたら、他の刺激に埋もれてわざわざ拾わなかった程度だ。
桜小路先輩を見る。
「先輩」
「なにかしら?」
「さっき、何か普段と違うもの開けました?」
先輩の手が止まった。驚いたというより、質問の意味を考える間だった。
「ああ」
すぐに納得したように頷く。
「少し前に、見学用に香材をいくつか出したの。もう戻したけれど」
やっぱり。
「まだ残ってる?」
「少しだけ」
「そう」
桜小路先輩は嫌な顔をしなかった。気味悪がりもしない。俺の鼻が何を拾ったのか、それだけを普通に受け取る。
「神崎くんには、まだ分かるくらい残っているのね」
「何か違うって分かっただけです。どれがどうとかまでは」
「ええ。それでいいのよ」
先輩は柔らかく笑った。
「違いに気づくことと、その香りの良し悪しを決めることは別でしょう?」
「まあ、そうですね」
「でも、わたくしにはもう分からない差を拾っている。それは神崎くんの感覚よ。わざわざ小さく言う必要はないと思うわ」
それだけ言って、先輩はまた準備へ戻った。先輩は前から、俺の鼻をそう扱う。俺にはほとんど邪魔でしかない感覚でも、ここでまで隠す必要はなかった。
「桜小路、こっちは確認した」
長谷川先生が書類を閉じた。
「ありがとうございます、長谷川先生」
「生徒側でできるとこは任せる。必要になったら呼んで」
「ええ」
「あと、お茶余ってる?」
「ありますよ」
答えたのは澄だった。
「先生の分も入れますね」
「助かる」
どうやら顧問も普通に休むらしい。桜小路先輩は準備へ戻る。澄は茶を淹れる。
長谷川先生は書類を脇へ置く。俺はその片隅で、湯呑みを持ち上げた。
一口飲む。教室では、鼻が良すぎることはまず避ける理由になる。
近づかない。人の少ない場所を選ぶ。必要なら離れる。
ここには匂いがある。人もいる。それでも、自分の感覚を隠して平気なふりをする必要はない。
まだ少し疲れている。帰ればまた駅も電車もある。
なら、急ぐ理由はない。俺はもう一度、普通に息を吸った。
畳と茶と、ごく薄い香材の残り。全部そこにある。それでも、避けなくていい。
帰るのは、もう少し後でいい。




