第3話 桜舞う朝と、近すぎる香水 3
黙っていると、柚木が呆れたように眉を上げた。
「神崎ってさ、一人でいるの好きな人?」
「人が多い場所に行くよりは」
「あー、好きっていうより、そっちが楽なんだ」
暗いとか付き合いが悪いとか、そういうまとめ方はしなかった。
その時、横から腕が伸びてきた。
「神崎、消しゴム貸して」
遠山だった。
「自分のは」
「消えた」
「足元」
「え?」
遠山が机の下を見る。椅子の脚の横に白い消しゴムが落ちていた。
「あるじゃん」
「だから言った」
「お前、先に拾ってくれてもよくない?」
「持ち主が目の前にいる」
「冷てえなあ」
言いながら、遠山は笑って消しゴムを拾った。
「サンキュ。助かった」
「何もしてない」
「見つけただろ」
教室の前の方から呼ばれ、遠山はそのままそっちへ行った。
柚木が遠山の背中と俺を交互に見る。
「……神崎、遠山にもそんな感じなんだ」
「そんな感じってなんだ」
「愛想がない」
「そうか」
「そこ否定しないんだ」
否定する理由もない。
柚木が小さく吹き出した。
遠山が去ると、柚木は会話を戻すように机の脇へ半歩寄った。
香水が一段強くなる。教室中に散っている時とは違って、近距離では他の匂いに混ざる前に鼻へ入ってくる。
反射的に呼吸を浅くし、上体をわずかに後ろへ引いた。
柚木がさらに机の脇へ寄る。俺は椅子を少し窓側へずらした。
そこで、柚木の言葉が止まった。
「……ねえ」
さっきまでの軽さが薄れる。
「神崎さ」
「何」
「やっぱ、あたしのこと避けてない?」
俺は柚木を見る。怒っている様子でも、笑って流そうとしているわけでもない。
本人から聞かれたなら、黙っている理由もない。
「柚木じゃない」
「……は?」
「近いと香水がきつい」
柚木の動きが止まった。
「香水?」
「ああ」
「え、ちょっと待って。朝のあれも?」
「そう」
数秒黙ってから、柚木は自分の制服の襟元へ一瞬だけ視線を落とした。
「そこ?」
「そこ」
「じゃあ最初から言ってよ!」
声が一段上がり、近くにいた何人かがちらりとこちらを見る。柚木はすぐに声量を落とした。
「いや、普通に感じ悪いからね? 何も言わずにスッて離れられたら」
「聞かれてなかったから」
「聞かれなきゃ言わないの?」
「俺が離れれば済むし」
柚木が口を開いたまま止まった。
「……それ、神崎の中では済んでるかもしれないけどさ」
「うん」
「こっちからしたら、理由もなく避けられてるようにしか見えないんだけど」
「今知った」
「今知った、じゃないって」
柚木が俺の顔を覗き込もうとして、途中で止まった。
「あ」
一歩戻る。鼻へ入ってくる香料も少し弱くなった。
「……そんなに鼻いいの?」
「良すぎる」
「良すぎるって何」
「拾いたくないものまで拾う」
「それ、便利なのか不便なのか分かんないね」
「ほぼ不便」
即答すると、柚木がまた笑った。そのまま自分の服を軽く見下ろす。
「香水、やめた方がいい?」
「いや」
今度は俺が即答した。
「柚木がつける分には好きにすればいいだろ。俺には近いときついってだけだから」
「でも神崎、きついんでしょ?」
「だから離れる」
「徹底して自分でどうにかするんだ」
「俺の鼻の都合で、柚木に変えろって言う方がおかしいだろ」
柚木は一瞬、俺の顔を見た。それから足元を確かめるように半歩下がる。
「じゃ、このくらい?」
普通に息を吸ってみる。さっきよりずっと楽だ。
「そのくらいなら平気」
「何これ。会話に推奨距離ある人、初めて見たんだけど」
「俺も人と話すたび測ってるわけじゃない」
「じゃああたし特別じゃん」
「香水が強いからな」
「そういう意味で言ってない!」
そうなのか。
柚木が額を押さえる。
「神崎、ほんっと感じ悪いね」
「さっきも聞いた」
「そこは一応気にして?」
「考えとく」
「絶対考えないやつじゃん」
その距離なら、もう椅子をずらす必要はなかった。
「玲奈ー、こっち来ないの?」
教室の中央から水瀬の声が飛んでくる。
柚木が振り返った。
「行くー!」
すぐに返してから、もう一度俺を見る。
「じゃ、神崎。またね」
「ああ」
「次から避ける前に言ってよ?」
「必要なら」
「そこは『分かった』でよくない?」
「分かった」
「言えるじゃん!」
最後までうるさい。
柚木は笑いながら水瀬たちの方へ戻っていった。近づいていた香水も、人の匂いの中へ離れていく。
近すぎなければ、普通に話せる。それだけ分かれば十分だった。
ただ、教室そのものは片づいてくれない。
昼休みが進むほど、弁当やパンの匂いが増えた。人が動くたび、朝からの匂いに昼食と汗が重なっていく。
窓が開けば外の空気が入る。その代わり、廊下を通る人間の匂いまで流れ込んでくる。
午後の授業が始まっても、それは消えなかった。むしろ時間が経つほど、教室に一日分の生活が積もっていく。
一つ一つなら耐えられる。問題は数だった。
誰か一人を遠ざければ解決するような話じゃない。柚木の香水だけが原因でもない。
午後の終わりが近づく頃には、朝より明らかに呼吸が浅くなっていた。今日はもう、この教室に長く残らない方がいい。
放課後になったら、人の少ない方へ抜ける。本棟から離れて、旧校舎の奥へ。
作法室まで行けば、少なくともここよりはましだ。
そう決めて、俺は黒板へ視線を戻した。




