第10話 花冷えの午後と、残された気配 3
空白になっていた一人が戻っているか、確認することにした。俺と柚木は職員室の前まで戻る。さっきと違って、入口近くに長谷川先生はいなかった。
代わりに柚木が近くの先生へ声をかけ、資料を途中で受け取った先生の名前を出す。
「ああ、今なら戻ってるよ」
答えはすぐに返ってきた。職員室の奥を示される。
「よかった。神崎、いたって」
「聞こえてる」
「返事くらいしてよ」
「してるだろ」
柚木は何か言いたそうな顔をしたが、そのまま飲み込んだ。俺たちは入口から声をかける。呼ばれた先生がこちらまで来て、俺の持っている紙束を見ると、すぐに「ああ」と頷いた。
「それなら覚えてるよ。今日の放課後に回したやつだね」
「この資料、受け取ってからすぐ長谷川先生に渡しました?」
柚木が聞く。
先生は少し考えた。
「いや、すぐじゃなかったな」
そこで、ようやく空白が埋まった。資料を受け取った直後、別の用事が入ったらしい。そのまま持っていくには邪魔だったので、職員室の中へ一度戻り、共用の給湯スペース脇にある棚へ置いた。
用事を済ませてから資料を回収し、その後で長谷川先生へ渡したという。前の先生は、その一時置きのことを知らない。だから話を前から追っても、その時間だけが抜けていた。
「じゃあ、そこじゃない?」
柚木が俺を見る。可能性は高い。ただ、話だけならまだ一つ増えただけだ。
「その棚、見せてもらえますか」
俺が言うと、先生は一度資料へ目を落とした。
「いいけど。何かあった?」
「コーヒーの匂いがするんです」
「コーヒー?」
「でも、こぼれた跡がない」
横から柚木が足す。
先生はますます分からない顔になったが、追及はしなかった。
「まあ、見るだけなら。こっち」
先生について職員室へ入る。教師の机が並ぶ空間は、生徒のいる教室とは匂いの種類が違った。紙とインク。ファイル。衣服。昼間から残っている飲食物。茶。コーヒー。
人数は教室より少ないが、一日の仕事が狭い場所に積もっている。普段なら長居したくない。今日は見る場所が決まっているだけましだった。
給湯スペースの横に、幅の狭い棚があった。
湯沸かし器や流し台からは少し外れていて、書類や私物を一時的に置くにはちょうどいい高さになっている。
「ここ。たぶん、この辺に置いた」
先生が棚の一角を示した。見る限り濡れた跡はない。カップが倒れた形跡もない。
その代わり。
棚へ近づいたところで、焦げた豆の匂いが濃くなった。手元の資料から拾っていたものと同じ系統だ。
視線をずらす。棚の端に、コーヒー豆の袋が置かれていた。袋の口は何度か折られ、クリップで留められている。
閉じてはいる。ただ、完全に匂いまで閉じ込められてはいなかった。袋のすぐ近くまで行かなくても、焙煎した豆の苦い香りが分かる。資料を置いたという場所との間隔は、紙束一つ分もない。
「これか」
俺が言うと、柚木も棚を見る。
「コーヒー?」
「ああ」
資料を持つ位置を少し変える。紙から残っている匂い。棚の周囲にある匂い。
完全に同じものだと言い切る必要はない。少なくとも、別の説明を探す理由はほとんどなくなった。先生が袋を見て眉を上げる。
「それ、誰かが置いてる豆だな。そういえば前からあったか」
「資料を置いた時も?」
「たぶん。少なくとも今日急に置かれたものじゃないよ」
柚木が俺の手元へ視線を移した。
「で、紙は濡れてない」
「染みもない。波打ってもない」
条件は揃った。
「こぼれてない」
「え?」
先生が聞き返す。
「この資料にコーヒーがかかったわけじゃないです。ここに置かれてる間に、近くの匂いが残ったんだと思います」
先生が紙束とコーヒー豆を交互に見た。
「ああ……そういうことか」
「じゃあ、資料は大丈夫なんだ?」
「見た範囲では」
「ならよかった。わざわざ確認させて悪かったね」
「こっちが勝手に調べただけなので」
正確には、途中から柚木も勝手に加わった。横を見ると、柚木はまだ棚と資料を見比べていた。何か引っかかっているらしい。
職員室を出てから、ようやく口を開く。
「神崎さ」
「何」
「最初、こぼしたと思ってたよね」
「ああ」
「そこ普通に認めるんだ」
「思ってたからな」
柚木が一度瞬く。
「違ったなら変えるだろ」
俺が言うと、柚木は黙った。それから、小さく笑う。
「……そっか」
まだ何か言いたそうではあったが、それ以上は続けなかった。
職員室の入口で長谷川先生を見つけた。ちょうど何枚かの書類を抱えて戻ってきたところだった。
「神崎。まだいたの?」
「先生が渡した資料の件です」
俺が紙束を上げる。
「原因分かりました。コーヒーをこぼしたわけじゃなかったです」
「ほんとに調べてたのか」
「途中までですけど」
「途中までで原因分かってるなら十分じゃない?」
長谷川先生は資料を一度見てから頷いた。
「傷んでない?」
「見える範囲では大丈夫です」
「ならよし。そのまま作法室に持ってって」
結局、最初の用事へ戻ってきた。
「分かりました」
長谷川先生は「助かった」とだけ言い、また職員室へ戻る。俺も資料を持ち直した。今度こそ旧校舎へ向かえばいい。
放課後になってから、ずいぶん遠回りした気がする。ただ、原因の分からないまま資料を持っていくよりはましだった。
廊下を歩き出す。数歩遅れて、もう一つ足音が続いた。香水の輪郭も、呼吸を邪魔しない距離に残っている。
調べる理由は、もうなくなった。それでも柚木は、まだそこにいた。




