第11話 花冷えの午後と、残された気配 4
「ねえ、神崎」
職員室を離れて少ししたところで、後ろから声が来た。
「何」
「神崎ってさ。自分の読み外しても、全然悔しそうじゃないよね」
足を止めるほどの話でもない。そのまま廊下を歩く。柚木もそのままついてきた。
「悔しがるところか?」
「いや、こう……もっと『俺の鼻が間違うはずない』みたいなのないの?」
「匂いは間違ってない」
「お」
「コーヒーの匂いがした。それだけだ。誰がどう付けたかまで鼻が教えてくれるわけじゃない」
「急に冷静」
「ずっとそうだけど」
「それ自分で言う?」
柚木が笑った。
昨日までなら、近くでその声がすると香水の方を先に気にしていた。今も香水は同じだが、さっきから間隔は崩れていない。
「でもさ」
柚木が言う。
「ちょっと安心したかも」
「何に」
「神崎も普通に勘違いするんだなって」
「するだろ」
「するんだ」
「人間だからな」
「そこから説明いる?」
「柚木が確認しただろ」
「そうだけど」
また笑う。困りはしない。
「じゃあ今度から、神崎が何か分かった顔してても、一回疑った方がいい?」
「俺が何か言ってからにしろ」
「顔じゃ分かんないんだ」
「顔で答え出したことないからな」
「なんか不公平」
「何が」
「神崎は人の反応細かく見るのに、こっちは神崎見ても情報少なすぎ」
「知らない」
「そういうとこ」
何のことかは分からない。ただ、柚木の声はまだ笑っていた。俺は手に持った資料を持ち直した。
「そういう柚木も、結構首突っ込んでたけどな」
「え、あたし?」
「俺が紙見てただけなのに、途中から先生捕まえて聞いて回ってただろ」
「聞いて回ってたって言い方やめて。めっちゃ聞き込みっぽいじゃん」
「違うのか」
「普通に聞いただけですー」
「よくあれだけ普通に聞けるな」
柚木が一瞬だけ黙った。
「それ、もしかして褒めてる?」
「感想」
「褒めてる?」
「しつこいな」
「だって神崎からそういうの珍しくない?」
そう言われても分からない。必要なことを言っただけだ。
「柚木が時間の空白を拾ってなかったら、もう少しかかったと思う」
今度は返事がすぐ来なかった。横を見る。柚木は目を丸くしていた。
「……それ、普通に役立ったってこと?」
「役立ったから使った」
「そこ即答なんだ」
「役に立たなかったら使ってない」
「一言余計なんだよなあ」
言いながらも、声は笑っている。
「でもまあ、よし」
「何が」
「神崎に一個貸しってことで」
「何を貸した」
「情報」
「勝手に集めたやつだろ」
「うわ、そういう言い方する?」
「事実だろ」
「じゃあ神崎も勝手に紙嗅いでたじゃん」
「嗅いでない。持ったら匂った」
「細かい!」
廊下の先で、運動部らしい集団が階段を下りていく。声と足音が遠ざかるのを待ってから、そのまま角を曲がった。コーヒーの話は、そこでほとんど尽きた。
だからといって、柚木が帰るわけでもなかった。足音はまだ一つ、少し離れたところから続いている。俺も別に止めなかった。
同じ方向へ歩いているなら、それだけの話だ。少しの間、会話が途切れる。気まずくはない。
窓の外から入った春の風が、廊下に残っていた人の匂いを薄く動かした。夕方にはまだ早い。けれど昼間より少し冷えた空気が混じっている。
廊下を曲がるたび、すれ違う生徒も少なくなった。俺にとってはその方が楽だ。柚木の香水も、他の匂いに何度も紛れる教室より輪郭がはっきりしている。
それでも、今の距離なら問題ない。わざわざ歩く速度を変える必要もなかった。
「そういえばさ」
先に口を開いたのは柚木だった。
「その紙、結局どこ持ってくの?」
視線が俺の手元へ落ちる。
「作法室」
「それ、さっき先生も言ってたやつ?」
「ああ」
「何の作法室?」
「香道部」
数歩ぶん、返事がなかった。
「……神崎、香道部なの?」
「部員ではある」
「何その言い方。じゃあ普通に香道部じゃん」
そう言われればそうだ。
柚木が少し首を傾げる。
「ていうか、香道って香りのやつだよね?」
「そう」
「神崎の鼻で平気なの?」
「強い匂いを撒く部活じゃないし、人も少ない」
「へえ」
「少なくとも教室よりは楽」
「比較対象が教室なの、神崎らしいね」
「俺には重要だからな」
「まあ、それはそうか」
軽い返事のあと、柚木の視線が廊下の先へ動いた。この先を進めば、本棟から旧校舎へ抜ける。昨日、俺が教室を出たあとに向かった場所でもある。
「神崎、放課後っていつもそこ行ってんの?」
「最近は」
「ふーん」
短い返事。
終わりかと思ったが、すぐ次が来た。「なんか意外」
「何が」
「神崎って、放課後になったら即帰るタイプかと思ってた」
「帰る日もある」
「じゃあ、わざわざ残る日もあるんだ」
「あるな」
柚木は考えるように俺を見る。
「香道部って、普段何してるの?」
「その日による」
「ざっくりしすぎ」
「香木を聞いたり、道具の準備したり」
「香木を聞く?」
柚木の眉が上がる。
「嗅ぐ、じゃなくて?」
「香道では聞くって言う」
「へえ……」
今度の返事は少し長かった。柚木は俺の持っている資料を見る。それから、廊下の先へ視線を移した。
旧校舎へ向かう方角へ。その視線は、しばらくそこに残っていた。




