第12話 花冷えの午後と、残された気配 5
俺はそのまま歩き出す。資料を届ける用事は、まだ終わっていない。
数歩進んだところで、後ろから声が来た。
「ねえ、神崎」
「何」
「その作法室ってさ」
少し間が空く。振り返ると、柚木は俺ではなく、さっきまで見ていた廊下の先へ目を向けていた。
「見に行ってもいい?」
俺に聞かれても困る。
「部長がいいって言えば」
「何その返事。神崎の部活でしょ?」
「俺の部屋じゃないからな」
「いや、それはそうだけど」
それから鞄を肩に掛け直した。
「じゃ、行く」
決めるのは早かった。俺は前を向く。足音が一つ増えた。
本棟から離れるにつれて、廊下を行き交う人間は減っていく。部活へ向かう集団と何度かすれ違ったが、それも旧校舎へ近づけばほとんどなくなった。声が遠くなる。足音が減る。
人間一人ぶんの生活臭が通り過ぎる回数も減った。その代わり、古い木材や乾いた埃の匂いが分かりやすくなる。俺にとっては、こっちの方がずっと楽だ。
「ほんとに人いないね」
柚木が言った。
歩く位置は少し離れている。昨日確認した距離を、そのまま今日も崩していない。
香水自体は変わっていない。教室より他の香料が少ないせいで輪郭はむしろはっきりしているが、今の間隔なら呼吸を浅くする必要もなかった。
「普段もこんな感じ?」
「だいたい」
「神崎が教室より楽って言ってたの、こういうこと?」
「それもある」
「それも?」
「人が少ない方が拾うものも減るから」
「なるほどね」
柚木はそれ以上聞かなかった。旧校舎の奥へ進む。曲がり角を二つ抜けた先で、『香道部』と書かれた木札が見えた。
「ここ」
「ほんとに香道部だ」
「何だと思ってたんだ」
「いや、疑ってたわけじゃないって」
木札を見上げていた柚木が一歩遅れる。俺は引き戸を開けた。
畳。茶。その奥に、今日使ったものだろう香材の薄い残り。
教室とは違って、どれも混ざり方が穏やかだ。
「お疲れさまです」
「お疲れさま、神崎くん」
桜小路先輩は畳の上で、使い終えた道具を一つずつ確認していた。少し離れたところでは、星野が何かを覗き込んでいる。
「桜小路先輩、これはこっちで合ってますか?」
「ええ。そちらで大丈夫よ」
「分かりました」
星野は返事をして、言われた場所へ道具を戻した。水屋からは澄が出てくる。手には湯呑みが二つ。
「慧くん、お疲れさま」
「ん」
いつも通り返してから、持っていた紙束を桜小路先輩へ差し出した。
「長谷川先生からです」
「あら、ありがとう。そこへ置いてもらえる?」
「分かりました」
指定された場所へ資料を置く。そこで、入口から足音がしないことに気づいた。
振り返る。柚木は敷居の外で止まっていた。中を一度見回してから、桜小路先輩へ視線を向ける。「あの、急にすみません。二年の柚木玲奈です。ちょっと見学してもいいですか?」
「ええ。もちろんよ」
桜小路先輩は特に驚くこともなく答えた。
「もう今日の聞香は終わってしまったけれど、それでもよければどうぞ」
「大丈夫です。今日は見るだけなので」
それを聞いて、柚木が中へ入ってくる。
最初に桜小路先輩。次に星野。それから水屋の前にいる澄へ視線が移った。
「澄ちゃんもいるんだ」
「うん。玲奈ちゃん、見学?」
「そんな感じ。神崎から聞いて、ちょっと気になって」
澄が小さく笑う。
「そっか」
澄はそれ以上、何も足さなかった。柚木が室内へ入ったことで、香水の輪郭も部屋の中へ加わる。ただ、俺の方へ寄ってはこない。空いていた場所の中でも、自然に俺から距離のある位置へ座った。
「こっちはくるみちゃん。今日は二回目なんだよ」
澄が言うと、星野がこちらを向いた。
「星野くるみです。一年です」
「柚木玲奈。よろしく」
「よろしくお願いします」
挨拶が終わると、星野はまた手元へ戻った。
「桜小路先輩、さっきのって毎回あの順番なんですか?」
「基本はそうね。でも、今日説明したのは本当に入口だけよ」
「やっぱりまだ先あるんですね」
「たくさんあるわ」
「ですよねえ……」
何となく想像できる返事だった。柚木も二人の方を見る。
「今って、片付け中ですか?」
「片付けと、次回の相談ね」
桜小路先輩が答える。
「香木を聞くことだけが活動ではないの。道具の手入れもするし、次に何を扱うか考えることもあるわ」
「へえ」
「今日は星野さんが二回目だから、前回より少し先まで説明していたところなの」
柚木の視線が星野へ移る。
「二回目なんだ」
「はい。まだ全然分かってないですけど」
「でも二回来てるなら、結構気になってるってことじゃない?」
星野が一瞬だけ考える。
「気にはなってます。あと、お菓子もおいしいです」
「くるみちゃん」
澄が呼ぶ。声は笑っていた。
「だって本当じゃないですか」
「否定はしないけど」
柚木が吹き出した。
「分かる。そこ大事だよね」
「ですよね?」
妙なところで話が合ったらしい。桜小路先輩も止める様子はなく、使い終えた道具の確認を続けている。澄は空いた湯呑みを下げ、代わりに柚木の分を用意する。
星野はさっきの続きを聞く。
「玲奈ちゃん、お茶飲む?」
「いいの?」
「うん」
「じゃあ、もらおうかな。ありがと」
澄が水屋へ戻る。その背中を見たあと、柚木の視線が今度は俺へ来た。
「神崎って、普段もこんな感じ?」
「何が」
「ここで」
質問が雑だった。
「こんな感じだと思う」
「自分のことなのに?」
「普通にいるだけだからな」
「それは見れば分かるけど」
柚木はそう言って、部屋の中をもう一度見た。桜小路先輩が道具をしまう。星野がその横で質問する。澄が茶を運んでくる。俺はさっき置いた資料が崩れそうだったので、端だけ揃えた。
「はい、玲奈ちゃん」
「ありがとう」
湯呑みを受け取った柚木が一口飲む。
「……おいしい」
「よかった」
澄も自分の湯呑みを持って座った。
「神崎、ちゃんと部活にいるんだね」
「さっきから何だと思ってるんだ」
「いや、もっとこう、隅でずっと休んでるとか」
否定しづらい。
「そういう日もある」
「あるんだ」
「疲れてれば」
「そこは無理しないんだね」
「ここで無理したら来る意味ないだろ」
「それもそうか」
柚木は納得したように茶をもう一口飲んだ。それから先は、俺へ質問が集中することもなかった。桜小路先輩へ道具のことを聞く。星野には、二度目に来て何が違ったのかを聞く。澄とは教室の話を少しする。
途中で俺にも話が飛んでくるが、答えればまた別のところへ流れていく。その間にも片付けは進んだ。使い終えたものが戻され、茶が減り、次に扱うものについて桜小路先輩と星野が話す。柚木はそのほとんどを、自分から手を出さずに見ていた。
しばらくして、柚木が時計へ目を向けた。
「そろそろ帰るね」
「ええ」
桜小路先輩が手を止める。柚木は立ち上がり、借りていた湯呑みを澄へ渡した。「ごちそうさま。急に来たのに、ありがとうございました」
「気にしなくていいのよ」
「玲奈ちゃん、また月曜ね」
「うん。澄ちゃんも」
星野にも軽く手を上げる。
「じゃあね」
「お疲れさまです」
最後に、柚木が俺を見る。
「神崎も、じゃあ月曜」
「ああ」
挨拶はそこで終わった。柚木が引き戸を開ける。廊下へ出て、戸が閉まった。
星野がすぐに桜小路先輩へ次の質問を始める。澄は空いた湯呑みを水屋へ運び、桜小路先輩はまた道具へ視線を戻した。俺も置いた資料の位置を少し直す。
引き戸の向こうでは、足音が旧校舎の廊下を遠ざかっていた。来た時には戸の前で一度止まった足音が、帰りは止まらず、そのまま本棟の方へ続いていった。




