第66話 雨上がりの旧校舎と、ひらかれる扉 3
それでも、戸を開ければ済む話ではない。そのことだけは、五人とも分かっていたらしい。
しばらく誰も続きを口にしなかった。澄が空になりかけた湯呑みを集め、星野が貼りかけだった付箋へ視線を戻す。柚木も頬杖を解いて、自分で分けた紙の束を揃え始めた。
さっきまでと同じ作法室だった。戸は閉まっている。
人の出入りはない。畳と木と、薄く残った茶の匂い。その中で、それぞれが自分の仕事を進めている。
ここを残したい、というのはたぶん五人とも同じだ。問題は、そのままでは外から何も見えないことだった。
「じゃあさ」
柚木が紙の端を揃えながら言った。
「まず、もっと分かりやすく書けばいいんじゃないですか? 香道部が何してるか」
「活動の紹介を、ということですの?」
「そうです。今のだと、知ってる人向けっぽいというか」
先輩は手元の紙へ目を落とす。悪い案には聞こえない。
何をしているか分からないなら、説明する。一番まっすぐな方法だ。
「でも、それだけで分かりますかね」
星野が言った。柚木が顔を向ける。
「分かんない?」
「私、入る前に『香道をやってます』って書いてあっても、たぶん今みたいには想像できなかったと思います」
「……あー」
「香道って言葉を知らなかったわけじゃないんです。でも、実際に何をするかまでは分からなかったので」
それはさっき聞いた話の続きだった。名前を知っていることと、ここで何をするのか分かっていることは違う。
「文章増やしても駄目ってこと?」
「駄目とは思わないです。ただ……」
星野は机の上へ目を落とした。
「説明を読んだのと、一回やってみたのって、全然違うじゃないですか」
俺も手元の記録から顔を上げる。説明を増やせば、それで届くわけでもないらしい。
「たしかにね」
柚木も頷いた。
「あたしが今日話した子も、たぶん説明されたら『へえ』とはなると思う。でも、それで香道ってこういう感じなんだ、まで行くかは分かんないかも」
「では、見ていただく方がよいのかしら」
先輩の言葉のあと、今度は誰もすぐに次の言葉を出さなかった。
「見てもらうって、ここをですか?」
星野が作法室を見回す。
「それが一番早くない?」
柚木が答えた。
「何してるか分かんないなら、来てもらえば――」
「普段から?」
澄が口を挟んだ。柚木の言葉が止まる。
「……普段から、は違うか」
「うん」
澄はそれだけ言って、戻ってきた湯呑みを机へ置いた。その横には、まだ確認途中の備品記録がある。
「今みたいに作業している時に、誰でも自由に出入りする形になると、たぶん今とは別の活動になると思う」
ちょうど星野が、机の端に置かれていた道具へ手を伸ばしかけて、一度動きを止めた。
「いつでも誰でも、というのは難しいでしょうね」
先輩も頷いた。
「香りを聞いている最中に人の出入りが続けば、それだけで条件が変わってしまいますもの。道具もありますし」
「ですよね」
星野が頷く。
「初心者だから入っちゃ駄目、ではないですけど……自由にどうぞって言われても、逆に困る気がします」
「それは分かる」
柚木が苦笑した。
「教室みたいに勝手に入って、空いてるとこ座ってー、って場所じゃないもんね」
話が、また行き止まりになる。見えない。
だから見せたい。でも、普段から開けるのも違う。
俺は机の中央に置かれた紙を見る。さっきから、二つの話を同じものとして扱っていた気がする。
「……別に、普段から開ける必要はないんじゃないですか」
俺が言うと、先輩がこちらを見る。
「と、おっしゃいますと?」
「外から何も分からないのが問題なんですよね」
「ええ」
「でも、だからって毎日ここに入れるようにする必要はない」
柚木が首を傾げた。
「じゃあ、どうするの?」
「毎日入れることと、一回でも実際に触れられることは別だろ」
「あ」
星野が先に声を出した。俺は続ける。
「今の作法室は今のまま使う。その代わり、香道がどういうものか知らない人でも、実際に触れられる機会を別に作る」
「……なるほど」
先輩の視線が、机の中央へ落ちた。
「場所を常に開くのではなく、入口を作る、ということですのね」
「そんな感じです」
言葉にされると、それが一番近かった。
「それなら、初心者でも入りやすくしてほしいです」
星野がすぐに言った。
「せっかく何かやってても、『香道を知ってる人向けです』みたいに見えたら、入る前の私はたぶん来ないので」
「星野、意外と警戒心あったんだ」
「ありましたよ」
「今ないじゃん」
「あります」
「どこに?」
「あたしよりはあるよね」
「柚木先輩と比べないでください」
「なんで?」
話がずれかける。
「そこは今どっちでもいい」
俺が言うと、二人から同時に視線が飛んできた。
「神崎さあ」
「先輩ってたまに雑ですよね」
「話戻せよ」
澄が笑った。先輩も口元を緩めてから、机の上の紙を引き寄せる。
「星野さんのおっしゃることは大切ですわね。初めての方に、最初から知識を求める形にはしたくありませんもの」
「あと、外から見て何するか分かる方がいいと思います」
柚木が今度は真面目な声で続けた。
「せっかく入口があっても、結局『なんか難しそう』で終わったら、今とそんなに変わらないし」
「でも、分かりやすくするために香道じゃないものへ変えるのも違いますわ」
先輩が言う。その声は柔らかいままだったが、そこだけははっきりしていた。
「触れていただくのであれば、きちんと香道として意味のある時間にしたいです」
「見世物にするわけじゃない、ってことですか」
「ええ」
少しずつ、形が絞られていく。
「だったら、やっぱり限定した方がいいと思う」
澄が言った。
「普段の活動とは分けて、必要な時だけ。そうすれば、準備する側もその前提で動けるから」
「いつでも好きなだけ、って形にはしない方がいいですね」
俺も続ける。
「小さくやる感じ?」
柚木が聞く。
「少なくとも最初から大きくする理由はないだろ」
「まあ、それはそうか」
「初心者でも分かって、小さくて、普段とは分ける……」
星野が指を折りかけて、途中でやめた。
「なんか、ちょっと見えてきましたね」
先輩はすぐには答えなかった。机の上の紙へ視線を落としたまま、しばらく考えている。
開くか、閉じるか。そのどちらかを選ぶ話だと思っていた。でも、そうでもないらしい。
「普段の作法室は、今までどおりにする」
先輩がゆっくり口を開いた。全員の視線が集まる。
「そのうえで、一般の生徒の方にも、実際に香道へ触れていただける機会を作る。大きくはせず、通常の活動とは分ける」
一度そこで言葉を切る。
「具体的な形は、これから考えましょう」
先輩は紙に一行だけ書き加えた。
「改善案には、その方向を入れますわ」
「決まり?」
柚木が聞く。
「方向としては、ですわね」
先輩は笑う。
「まだ考えることはたくさんございますもの」
「ですよねー」
「でも、一歩進みました」
星野の声は少し嬉しそうだった。俺も異論はない。
今ここにあるものを捨てずに、外から見えないという問題もそのままにはしない。少なくとも、次に進む方向は決まった。
先輩が紙へ何かを書き始める。数行書いたところで、俺は一瞬その手を見た。
そのまま全部まとめ始めるのかと思ったからだ。けれど、先輩はペンを置いた。
「では、この続きもお願いしてよろしいかしら」
紙が、また机の中央へ戻る。
「柚木さんには、外から見て何が分かりにくいか。星野さんには、初めて触れる側として何が必要かを、もう少し整理していただきたいです」
「はい」
「分かりました」
「真白さんには、普段の活動と両立させるうえで気になるところを。神崎くんには、皆さんの話を合わせた時に無理が出るところを見ていただけます?」
「うん」
「分かりました」
「わたくしは、香道として外せない部分と、部として説明すべきことを整理します」
誰の前にも、全部の紙は集まらなかった。それがもう、珍しく見えなくなっている。
「今日やる?」
柚木が聞いた。
「いいえ」
先輩は即答した。
「今日はここまでにいたしましょう」
「お」
「何ですの、その反応は」
「いやー、先輩が自分から言うんだって」
「柚木さん?」
「褒めてますって」
先輩は困ったように笑った。でも、手元の紙を取り戻すことはなかった。
それからは、本当に通常の片付けになった。星野が付箋を外し、柚木が紙をまとめる。
澄は使った湯呑みを片づけ、俺も自分の分を元の束へ戻した。誰か一人だけが机に残ることはない。
最後に先輩が戸締まりを確認して、五人で廊下へ出る。作法室の戸は、今日も閉まった。
閉じること自体は、昨日までと変わらない。ただ、その内側だけで全部を完結させるつもりは、もうなかった。
この場所を残すために、どこまでなら開けるのか。次に考えるのは、そっちだった。




