第65話 雨上がりの旧校舎と、ひらかれる扉 2
昨日残した三か所目の記録は、今日も俺の前にあった。だからといって、誰かに急かされることもない。
放課後の作法室では、澄が備品の記録を確認し、柚木が活動記録を整理し、星野が準備と実際の活動を照らし合わせている。先輩も自分の資料を広げていた。
五人が同じ部屋で、それぞれ別のことをしている。紙をめくる音と、湯呑みを置く小さな音。
時々、誰かが分からないところを聞いて、先輩が答える。昨日から続いている仕事なのに、先輩の前へ紙の束が集まっていくことはなかった。
「神崎、それ昨日の続き?」
「そう」
「まだ終わってなかったんだ」
「昨日、次でいいって言われたから」
「へえ。ちゃんと次に回せたんだ?」
「何その言い方」
「別にー?」
柚木が笑いながら自分の紙へ戻る。余計な一言だと思うが、否定できないのが少し腹立たしい。
俺も記録へ視線を戻した。昨日より一枚少ないだけで、机の上は大して変わらない。
けれど、この部屋の動き方は変わった。誰か一人の前に全部が集まらない。
それだけで、同じ紙の束も違って見える。
「……あ、そうだ」
しばらくして、柚木が手を止めた。
「先輩、これとはちょっと違う話なんですけど、いいですか?」
「ええ。どうしました?」
「ちゃんと調べたとかじゃないんですけど」
最初にそう断ってから、柚木は手元の紙を指で軽く叩いた。
「今日、クラスでこれ整理してるって話になったんですよ。香道部の活動記録って言ったら、何人かに聞かれて」
「どのようなことを聞かれましたの?」
「『香道部って、何してる部なの?』って」
紙をめくる音が止まった。先輩が柚木を見る。
「旧校舎の作法室で活動してるのは知ってる。でも、そこで何してるのかはよく知らない、みたいな感じです。お香を焚いてる部? って聞かれたり」
「香道そのものを、よくご存じないということかしら」
「たぶん。少なくとも今日話した子たちは」
柚木はそこで肩をすくめた。
「でも二、三人ですよ? 別にアンケート取ったわけじゃないし、学校のみんながそうって話じゃないです」
「……それ、私も分かります」
今度は星野が口を開いた。視線がそちらへ集まる。
「私、入る前は香道部が何をするところなのか、あんまり分かってなかったです」
「星野さんも?」
「はい。香道って言葉は知ってましたけど、実際にここでどういうことをしてるのかまでは」
星野は続けた。
「あと、詳しい人が入る部なのかなって思ってました。初心者でも大丈夫なのかとか、作法室に見学で入っていいのかとか。そういうのも、入る前はよく分からなかったです」
「今はずいぶん馴染んでるけどな」
「それは入ってからです」
即座に返された。
「今の私が知ってることを、入る前の私まで知ってたことにしないでください」
「してないけど」
「今ちょっとしました」
「してない」
星野が不満そうに俺を見る。横で柚木が笑った。先輩も口元をわずかに緩めたが、すぐに机の上へ視線を落とした。
「……なるほど」
その声は、さっきより低かった。俺も手元の記録を見る。
ここには、何を準備したかが書いてある。どんな活動をしたかもある。
使った道具も、必要だった手順も、俺たちがこの部屋で積み重ねてきたものも。部の内側にいる人間が読むなら、かなり分かるようになってきた。
けれど、その紙を見る機会がない人間には関係がない。
「これ、昨日足りなかったものかもしれないですね」
俺が言うと、先輩が顔を上げた。
「昨日?」
柚木が反応したが、俺はそちらを見なかった。
「部の中で整理できることと、外からどう見えてるかは別だって話です」
「ああ、そっちね」
柚木はそれだけで引いた。俺は星野を見る。
「柚木がたまたま話した相手だけなら、そういう人もいる、で終わってたかもしれない」
「はい」
「でも、星野も入る前は似た感じだった」
星野が頷く。二人が持ってきた話は、出てきた場所が違う。片方は今日の教室。もう片方は、実際にこの部へ入る前の経験だ。
俺一人で机に向かっていても出てこなかった情報が、別々のところから同じ方向を指している。
「わたくしたちは」
先輩がゆっくりと言葉を選ぶ。
「香道部が何を大切にしているか、以前より説明できるようになってきましたわね」
「はい」
「けれど、その説明を受け取っていただく以前に――そもそも何をしている部なのかが伝わっていない方もいらっしゃる」
誰もすぐには返さなかった。柚木が机に頬杖をつく。
「それって、けっこうもったいなくないですか?」
「もったいない?」
「だって、知らないなら、いいとか悪いとか判断するところまで行かないじゃないですか」
柚木らしい言い方だった。
「何してるか分かんない部です、で止まってたら、その先ないでしょ?」
「……確かに」
星野も頷く。
「私も、入る前に今みたいなことを知ってたら、印象は違ったと思います」
「今みたいなこと?」
「香りを聞くだけじゃなくて、準備したり、道具を扱ったり。あと……」
星野の視線が部屋を一周する。
「こうやって、普通にみんなで過ごしてることとか」
言われて、俺も周囲を見る。澄の手元には、確認途中の備品記録。
柚木の横には、項目ごとに分けられた紙。星野の前には、まだ付箋の残った資料。
先輩の湯呑みからは、もうほとんど湯気が上がっていない。誰かが話している時以外は、紙の擦れる音くらいしか聞こえなかった。
俺にとっては、もう日常になっている。放課後になればここへ来る。
茶を飲んで、話して、必要なら香りを聞く。何かあれば考えるし、何もなければ静かに時間が過ぎる。
そのほとんどは、戸の向こうからは見えない。
「じゃあ、もっと見えるようにした方がいいってこと?」
柚木の問いに、先輩はすぐには答えなかった。代わりに澄が湯呑みを置く。
「見えるようにするのと、いつでも入れるようにするのは、少し違うと思う」
静かな声だった。ちょうどその時、廊下を何人かが通った。
話し声が戸の向こうを横切って、すぐに遠ざかる。部屋の中には、また紙の音だけが残った。
木と畳。薄く残る茶。
五人が持ち込んだ匂いも、しばらくいればそれぞれの輪郭が落ち着いてくる。知らない人間の出入りが絶えず続けば、たぶんこの空気は保てない。
俺が面倒というだけじゃなく、香りを扱う場所としても同じだ。
「香りを扱う時もそうだし、落ち着いて活動できること自体にも意味があると思う」
澄が続ける。
柚木は部屋の中を見回してから、「……まあ、ここが教室みたいになったら違うか」とだけ言った。星野も、自分の資料へ目を落としたまま頷く。
先輩はしばらく何も言わなかった。その間にも、澄は途中だった記録へ戻り、柚木が一枚の紙を別の束へ移す。
星野が迷ったらしい箇所へ付箋を貼った。誰か一人が黙ったからといって、部屋全体が止まるわけでもない。
先輩がようやくペンを取った。
「少なくとも、考える必要はありそうですわね」
「外からどう見えてるか、ですか?」
星野が聞く。
「ええ」
先輩は紙へ何かを書き足した。俺の位置からは、その文字までは読めない。書き終えても、紙は先輩の手元へ戻らなかった。机の中央に置かれる。
「わたくしたちにとって当たり前になっていることが、外でも当たり前とは限りませんもの」
俺はその紙を見る。昨日までなかった材料が、一つ増えた。
香道部の価値をどう説明するか。その前に、そもそも相手から何が見えているのか。
そこを考えずにいたら、いくら中身を整えても届かないのかもしれない。作法室の戸は、今日も閉じている。
今ここで過ごすためには、その方がいい。けれど、その戸の向こうから何が見えているのかを、俺たちは今までほとんど知らなかった。
それが分かっただけで、昨日までとは同じ閉じ方には見えなかった。




