第64話 雨上がりの旧校舎と、ひらかれる扉 1
雨は、朝には上がっていた。
濡れたアスファルトと土の匂いが、いつもより低いところに残っている。昨日みたいに空気そのものが水を含んでまとわりつく感じはない。
「慧くん、ちゃんと寝た?」
隣を歩く澄が、信号を待ちながら俺を見る。
「寝た」
「何時間くらい?」
「そこまで確認する?」
「昨日、いつもより遅かったから」
理由としては正しい。
「普通に寝たよ。朝も起きてるし」
「それならいいけど」
澄はそれ以上聞かなかった。何をしていたのかとも、誰と何を話していたのかとも。
俺も、少し作業が長引いたこと以上は言わない。昨日先輩が話したことは、俺が勝手に持ち出していい話じゃない。
信号が青に変わる。
「じゃあ、行こっか」
「ああ」
濡れた歩道を、いつも通り二人で学校へ向かった。昨日だけ帰る時間がずれたところで、朝まで変わるわけじゃない。
その程度には、俺と澄の日常は長かった。
放課後。
旧校舎の窓から差し込む光は、昨日よりずっと明るかった。雨に洗われたせいか、廊下に残る木と埃の匂いも少し薄い。
作法室へ入ると、すでに先輩が机の上へいくつかの資料を広げていた。
「こんにちは、神崎くん。真白さんも」
「こんにちは」
「こんにちは、先輩」
昨日と同じ机。昨日と似た紙の束。けれど今日は二人じゃない。
「おつかれー」
少し遅れて柚木が入り、その後ろから星野も顔を出した。
「お疲れさまです」
五人が揃う。湯呑みが置かれ、短い雑談があって、それぞれが今日やることを確認する。そこまでは普通の部活だった。
「では、今日の分ですけれど」
先輩が資料へ目を落とした。
「真白さん。備品と準備の手順で、今のやり方と記録に違いがないか見ていただける?」
「はい。気づいたところはまとめておきますね」
「お願いします。柚木さんは、こちらの活動記録を使いやすい形に整理していただけるかしら。全部でなくて構いません。この範囲だけで」
「了解です。こういうの、項目ごとに分ければいいですか?」
「ええ。迷うものは無理に決めず、そのまま残してくださいな」
「はーい」
「星野さんには、最近の活動記録から、準備したものと実際に行ったことを拾っていただきたいの」
「分かりました。書いてある範囲だけでいいんですよね?」
「ええ。それで十分ですわ」
先輩はそこで一度手元を見てから、自分の前へ数枚を残した。
「わたくしはこちらを確認します。最終的な判断が必要なものは、こちらへ回してください」
俺の前には、昨日印をつけた三か所の記録が残った。
「神崎くんは、昨日の続きでもよろしい?」
「はい。そのつもりでした」
「では、お願いいたします」
紙を受け取る。俺の前だけじゃない。
澄にも、柚木にも、星野にも、それぞれやるものが残っている。先輩は自分の資料へ目を戻した。
俺も手元の記録を開いた。複数人が同じ机で別々のことをしていると、紙をめくる音にも種類が出る。
柚木は早い。星野は一枚ごとに少し止まる。
澄は資料と実物を何度か往復していた。先輩だけが全部へ目を配っているのは変わらない。
「桜小路先輩」
しばらくして、星野が一枚の記録を持ち上げた。
「ここなんですけど。同じような内容なのに、こっちは準備として書いてあって、こっちは活動の方に入ってます。どっちに合わせた方がいいですか?」
先輩が顔を上げる。
「見せていただける?」
「はい」
星野が紙を差し出しかける。先輩は内容を確認したが、受け取らなかった。
「その二つでしたら、今は無理に一つへ揃えなくて大丈夫ですわ。意味が少し違いますから、元の記載を残したまま印だけつけておいてくださる?」
「あ、分かりました」
「後ほど、わたくしが最終確認します」
「じゃあこのまま続けますね」
「お願いします」
紙は星野の手元へ戻る。今度は澄が口を開いた。
「先輩。ここの準備だけ、今の置き方に合わせて順番を入れ替えても大丈夫ですか?」
先輩は澄が示した場所を見る。
「そうですわね。その方が実際の動きには合っています。理由だけ一言残していただける?」
「はい」
「では、それでお願いします」
先輩は立ち上がらなかった。澄がそのまま作業を続ける。
星野の紙も戻ってこない。先輩の前にある束は増えないまま、先輩自身の資料だけが少しずつ進んでいった。
「……神崎」
横から声が飛んできた。
「何」
「さっきから顔怖いんだけど」
「普通だけど」
「またなんか考えてたでしょ」
「記録見てた」
「絶対それだけじゃないやつ」
柚木は言いながらも、それ以上追わず自分の紙へ戻った。こういうところは相変わらず早い。
俺も元の記録へ視線を戻した。三か所のうち二つ目を確認し終えた頃、机の向こうから紙が一枚滑ってきた。
「神崎くん。少しよろしい?」
「はい」
先輩が差し出した紙には、綺麗にまとまった文章はなかった。短い言葉。
矢印。途中で止まった行。
書き直した跡。先輩の資料にしては珍しい。
「まだ、案というほどのものではありませんの」
先輩はそう言って、紙の端を指で押さえた。
「学校へ、この部の活動をどう説明するかを考えていたのですけれど……ここで少し止まってしまって」
「止まったまま見せるんですね」
口にしてから、余計だったかと思った。けれど先輩は困った顔をしなかった。
「ええ」
それだけだった。昨日みたいに言葉を選ぶ長い間もない。
完成していないものを見せること自体が、もう特別な手続きじゃないらしい。紙を見る。
活動記録。作法室の使用状況。
続けるために必要なもの。今まで積み上げてきた材料が、まだ線にならないまま並んでいる。
「活動してる側から出せるものは、だいぶ揃ってきてますよね」
「ええ。何をしているか、どう使っているか、部として何を残したいか。そのあたりは以前より整理できています」
「でも、それで学校側がどう受け取るかまでは分からない」
「そうなのです」
先輩が頷く。
「わたくしたちが価値を知っていることと、それを他の方にも分かる形にできていることは、同じではありませんもの」
そこまでは言える。
問題は、その先だ。
俺は紙の上にある言葉を順番に追った。
「これ、今ある材料だけで答えを出そうとしない方がいいと思います」
「と、言いますと?」
「部の中から分かることと、部の外から見た時にどう受け取られるかは、別の情報です」
先輩が黙って聞いている。
「俺たちはここで普段から活動してるから、何をしてるか知ってます。でも、外の人が同じように見えてるかは、この紙だけじゃ分からない」
「……ええ」
「だから今分かるのは、そこを判断する材料が足りないってことまでじゃないですか」
紙へ線を引くことはしない。答えも書かない。
まだ、そんな段階じゃない。先輩はしばらく紙を見ていた。
それから、途中で止まっていた行の横へ、小さく何かを書き足した。
「足りないものが分かっただけでも、前には進んでいますわね」
「たぶん」
「そこはもう少し自信を持ってくださってもよろしいのではなくて?」
「先輩の案なんで」
「相談相手としての自信の話です」
「それなら余計にないです」
先輩が笑った。
「本当に、神崎くんは変わりませんのね」
「一日でそんな変わらないですよ」
「そうですわね」
先輩は紙を回収しなかった。いや、元から先輩の紙だから回収というのも変か。
ただ、俺の前に置いたまま、横に自分の資料を広げ直した。まだ完成していないものが、二人の間に置かれている。それを急いで片づける必要はなかった。
「じゃ、あたしここまでー」
柚木が伸びをした。
「こっちも終わりました」
星野も自分の束を揃える。窓の外はまだ明るいが、活動を切り上げるには十分な時間だった。
澄が時計を見てから、俺の方へ視線を寄越す。俺も見る。
まだ紙は残っている。先輩の前にも。昨日なら、その量が少し気になったかもしれない。
「今日は、ここまでにいたしましょうか」
先輩が言った。誰も促していない。
「残りは次回で大丈夫です。柚木さんと星野さんの分も、途中のものはそのままで構いませんわ」
「はーい」
「分かりました」
「真白さんも、続きはまた次でお願いします」
「はい。ここまでまとめておきますね」
「ありがとうございます」
先輩自身も、残っている資料を一つにまとめた。中身を見直して、優先する紙だけ上へ置く。でも、新しく開きはしない。
「神崎くんも」
「はい?」
「その三か所目は、次で結構ですわ」
俺の手元には、まだ一つ残っていた。
「これくらいなら今できますけど」
言ってから、昨日と逆だなと思った。先輩の目元がわずかに緩む。
「できることと、今日すべてすることは別なのでしょう?」
「……そうでした」
「ええ」
返された。
しかも昨日の俺の理屈に近い。
「じゃあ次にします」
「お願いします」
紙を閉じる。湯呑みを片づけ、机の上を整える。
誰か一人が全部をやるわけじゃない。澄が道具を戻し、柚木が自分たちの紙をまとめ、星野が使った場所を確認する。
先輩も同じように手を動かしている。ただし、全部は拾わない。
「忘れ物ない?」
柚木が全員を見回す。
「大丈夫です」
「俺も」
「私も大丈夫」
「では、出ましょうか」
五人で作法室を出る。先輩が最後に戸を閉め、鍵を確かめた。
旧校舎の廊下には、雨上がりの湿った空気がまだ少し残っている。昨日より明るい。
階段を下りながら、柚木と星野の話し声が前から聞こえる。澄は俺の隣。
先輩も今日は、その少し先を一緒に歩いていた。昇降口を出るところで、濡れた土の匂いが薄く混じる。
雨は、もう降っていない。後ろで旧校舎の扉が閉まる音がした。
中には、まだ終わっていない紙が残っている。それでも今日は、誰もそこへ残らなかった。




