↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
薫風の密室と、支えの行方

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
64/94

第64話 雨上がりの旧校舎と、ひらかれる扉 1

 雨は、朝には上がっていた。


 濡れたアスファルトと土の匂いが、いつもより低いところに残っている。昨日みたいに空気そのものが水を含んでまとわりつく感じはない。


「慧くん、ちゃんと寝た?」


 隣を歩く澄が、信号を待ちながら俺を見る。


「寝た」

「何時間くらい?」

「そこまで確認する?」

「昨日、いつもより遅かったから」


 理由としては正しい。


「普通に寝たよ。朝も起きてるし」

「それならいいけど」


 澄はそれ以上聞かなかった。何をしていたのかとも、誰と何を話していたのかとも。


 俺も、少し作業が長引いたこと以上は言わない。昨日先輩が話したことは、俺が勝手に持ち出していい話じゃない。


 信号が青に変わる。


「じゃあ、行こっか」

「ああ」


 濡れた歩道を、いつも通り二人で学校へ向かった。昨日だけ帰る時間がずれたところで、朝まで変わるわけじゃない。


 その程度には、俺と澄の日常は長かった。


 放課後。


 旧校舎の窓から差し込む光は、昨日よりずっと明るかった。雨に洗われたせいか、廊下に残る木と埃の匂いも少し薄い。


 作法室へ入ると、すでに先輩が机の上へいくつかの資料を広げていた。


「こんにちは、神崎くん。真白さんも」

「こんにちは」

「こんにちは、先輩」


 昨日と同じ机。昨日と似た紙の束。けれど今日は二人じゃない。


「おつかれー」


 少し遅れて柚木が入り、その後ろから星野も顔を出した。


「お疲れさまです」


 五人が揃う。湯呑みが置かれ、短い雑談があって、それぞれが今日やることを確認する。そこまでは普通の部活だった。


「では、今日の分ですけれど」


 先輩が資料へ目を落とした。


「真白さん。備品と準備の手順で、今のやり方と記録に違いがないか見ていただける?」

「はい。気づいたところはまとめておきますね」

「お願いします。柚木さんは、こちらの活動記録を使いやすい形に整理していただけるかしら。全部でなくて構いません。この範囲だけで」

「了解です。こういうの、項目ごとに分ければいいですか?」

「ええ。迷うものは無理に決めず、そのまま残してくださいな」

「はーい」

「星野さんには、最近の活動記録から、準備したものと実際に行ったことを拾っていただきたいの」

「分かりました。書いてある範囲だけでいいんですよね?」

「ええ。それで十分ですわ」


 先輩はそこで一度手元を見てから、自分の前へ数枚を残した。


「わたくしはこちらを確認します。最終的な判断が必要なものは、こちらへ回してください」


 俺の前には、昨日印をつけた三か所の記録が残った。


「神崎くんは、昨日の続きでもよろしい?」

「はい。そのつもりでした」

「では、お願いいたします」


 紙を受け取る。俺の前だけじゃない。


 澄にも、柚木にも、星野にも、それぞれやるものが残っている。先輩は自分の資料へ目を戻した。


 俺も手元の記録を開いた。複数人が同じ机で別々のことをしていると、紙をめくる音にも種類が出る。


 柚木は早い。星野は一枚ごとに少し止まる。


 澄は資料と実物を何度か往復していた。先輩だけが全部へ目を配っているのは変わらない。


「桜小路先輩」


 しばらくして、星野が一枚の記録を持ち上げた。


「ここなんですけど。同じような内容なのに、こっちは準備として書いてあって、こっちは活動の方に入ってます。どっちに合わせた方がいいですか?」


 先輩が顔を上げる。


「見せていただける?」

「はい」


 星野が紙を差し出しかける。先輩は内容を確認したが、受け取らなかった。


「その二つでしたら、今は無理に一つへ揃えなくて大丈夫ですわ。意味が少し違いますから、元の記載を残したまま印だけつけておいてくださる?」

「あ、分かりました」

「後ほど、わたくしが最終確認します」

「じゃあこのまま続けますね」

「お願いします」


 紙は星野の手元へ戻る。今度は澄が口を開いた。


「先輩。ここの準備だけ、今の置き方に合わせて順番を入れ替えても大丈夫ですか?」


 先輩は澄が示した場所を見る。


「そうですわね。その方が実際の動きには合っています。理由だけ一言残していただける?」

「はい」

「では、それでお願いします」


 先輩は立ち上がらなかった。澄がそのまま作業を続ける。


 星野の紙も戻ってこない。先輩の前にある束は増えないまま、先輩自身の資料だけが少しずつ進んでいった。


「……神崎」


 横から声が飛んできた。


「何」

「さっきから顔怖いんだけど」

「普通だけど」

「またなんか考えてたでしょ」

「記録見てた」

「絶対それだけじゃないやつ」


 柚木は言いながらも、それ以上追わず自分の紙へ戻った。こういうところは相変わらず早い。


 俺も元の記録へ視線を戻した。三か所のうち二つ目を確認し終えた頃、机の向こうから紙が一枚滑ってきた。


「神崎くん。少しよろしい?」

「はい」


 先輩が差し出した紙には、綺麗にまとまった文章はなかった。短い言葉。


 矢印。途中で止まった行。


 書き直した跡。先輩の資料にしては珍しい。


「まだ、案というほどのものではありませんの」


 先輩はそう言って、紙の端を指で押さえた。


「学校へ、この部の活動をどう説明するかを考えていたのですけれど……ここで少し止まってしまって」

「止まったまま見せるんですね」


 口にしてから、余計だったかと思った。けれど先輩は困った顔をしなかった。


「ええ」


 それだけだった。昨日みたいに言葉を選ぶ長い間もない。


 完成していないものを見せること自体が、もう特別な手続きじゃないらしい。紙を見る。


 活動記録。作法室の使用状況。


 続けるために必要なもの。今まで積み上げてきた材料が、まだ線にならないまま並んでいる。


「活動してる側から出せるものは、だいぶ揃ってきてますよね」

「ええ。何をしているか、どう使っているか、部として何を残したいか。そのあたりは以前より整理できています」

「でも、それで学校側がどう受け取るかまでは分からない」

「そうなのです」


 先輩が頷く。


「わたくしたちが価値を知っていることと、それを他の方にも分かる形にできていることは、同じではありませんもの」


 そこまでは言える。


 問題は、その先だ。


 俺は紙の上にある言葉を順番に追った。


「これ、今ある材料だけで答えを出そうとしない方がいいと思います」

「と、言いますと?」

「部の中から分かることと、部の外から見た時にどう受け取られるかは、別の情報です」


 先輩が黙って聞いている。


「俺たちはここで普段から活動してるから、何をしてるか知ってます。でも、外の人が同じように見えてるかは、この紙だけじゃ分からない」

「……ええ」

「だから今分かるのは、そこを判断する材料が足りないってことまでじゃないですか」


 紙へ線を引くことはしない。答えも書かない。


 まだ、そんな段階じゃない。先輩はしばらく紙を見ていた。


 それから、途中で止まっていた行の横へ、小さく何かを書き足した。


「足りないものが分かっただけでも、前には進んでいますわね」

「たぶん」

「そこはもう少し自信を持ってくださってもよろしいのではなくて?」

「先輩の案なんで」

「相談相手としての自信の話です」

「それなら余計にないです」


 先輩が笑った。


「本当に、神崎くんは変わりませんのね」

「一日でそんな変わらないですよ」

「そうですわね」


 先輩は紙を回収しなかった。いや、元から先輩の紙だから回収というのも変か。


 ただ、俺の前に置いたまま、横に自分の資料を広げ直した。まだ完成していないものが、二人の間に置かれている。それを急いで片づける必要はなかった。


「じゃ、あたしここまでー」


 柚木が伸びをした。


「こっちも終わりました」


 星野も自分の束を揃える。窓の外はまだ明るいが、活動を切り上げるには十分な時間だった。


 澄が時計を見てから、俺の方へ視線を寄越す。俺も見る。


 まだ紙は残っている。先輩の前にも。昨日なら、その量が少し気になったかもしれない。


「今日は、ここまでにいたしましょうか」


 先輩が言った。誰も促していない。


「残りは次回で大丈夫です。柚木さんと星野さんの分も、途中のものはそのままで構いませんわ」

「はーい」

「分かりました」

「真白さんも、続きはまた次でお願いします」

「はい。ここまでまとめておきますね」

「ありがとうございます」


 先輩自身も、残っている資料を一つにまとめた。中身を見直して、優先する紙だけ上へ置く。でも、新しく開きはしない。


「神崎くんも」

「はい?」

「その三か所目は、次で結構ですわ」


 俺の手元には、まだ一つ残っていた。


「これくらいなら今できますけど」


 言ってから、昨日と逆だなと思った。先輩の目元がわずかに緩む。


「できることと、今日すべてすることは別なのでしょう?」

「……そうでした」

「ええ」


 返された。


 しかも昨日の俺の理屈に近い。


「じゃあ次にします」

「お願いします」


 紙を閉じる。湯呑みを片づけ、机の上を整える。


 誰か一人が全部をやるわけじゃない。澄が道具を戻し、柚木が自分たちの紙をまとめ、星野が使った場所を確認する。


 先輩も同じように手を動かしている。ただし、全部は拾わない。


「忘れ物ない?」


 柚木が全員を見回す。


「大丈夫です」

「俺も」

「私も大丈夫」

「では、出ましょうか」


 五人で作法室を出る。先輩が最後に戸を閉め、鍵を確かめた。


 旧校舎の廊下には、雨上がりの湿った空気がまだ少し残っている。昨日より明るい。


 階段を下りながら、柚木と星野の話し声が前から聞こえる。澄は俺の隣。


 先輩も今日は、その少し先を一緒に歩いていた。昇降口を出るところで、濡れた土の匂いが薄く混じる。


 雨は、もう降っていない。後ろで旧校舎の扉が閉まる音がした。


 中には、まだ終わっていない紙が残っている。それでも今日は、誰もそこへ残らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。