第63話 雨音の作法室と、預けられた重荷 3
紙をめくる音が、雨音の間に二つ混じる。
俺は活動記録と一覧を交互に見ながら、日付と記載を拾っていった。
判断はしない。食い違いがあれば印をつけて残す。さっき先輩から言われた通りだ。
「先輩。ここの日付、一覧だと一日ずれてます」
「……本当ですわね。そちらは残しておいてくださいな。後で元の記録を確認します」
「分かりました」
それだけ。向かいでは先輩も自分の束を一枚ずつ処理している。
始めてしまえば、作法室はいつもの静けさに戻った。違うのは、先輩の前にあった紙の一部が、今は俺の手元にあることくらいだ。
窓の外では雨が降り続いている。湿った空気は苦手だが、ここは人も香料も少ない。畳と紙、それから冷めかけた茶の匂いが薄く残るだけで、呼吸は楽だった。
しばらくして、最後の一枚を一覧と合わせる。
「終わりました」
「ありがとうございます。こちらへいただける?」
束を差し出すと、先輩はすぐに目を通した。
「……ええ。これなら、確認が必要なのは三か所だけですわね」
「思ったより少なかったですね」
「そうですわね」
先輩は三枚だけを抜き、残りを揃える。
俺がやったのは照合だけだが、先輩が全部を最初から見直す必要はなくなった。
向こうの束も、さっきより薄い。
「今日は、ここまででよさそうですか」
「ええ。急いで確認する必要があるものは済みました。残りは明日でも問題ありません」
「じゃあ終わりですね」
「そうですわね」
先輩が微笑む。そこで会話は切れた。
雨音だけが残る。俺は筆記具をしまった。
先輩は、しまわなかった。机の上に残っているのは、さっきまでに扱った資料だけだ。新しく手をつけるものはない。
さっき本人が、残りは明日でいいと言った。なのに先輩の指は、閉じたペンの上に置かれたままだった。
帰る準備へ移らない。近くにいるぶん、呼吸のわずかな間や、肌から立つ薄い汗の気配までは拾える。
けれど、それが何を意味するかは別だ。仕事が終わって力が抜けただけかもしれない。
雨が弱くなるのを待っている可能性だってある。分かるのは、今の先輩がまだ席を立っていないことだけだった。
「先輩」
「はい?」
「まだ何かあります?」
先輩が目を丸くする。
「いいえ。今日するべきことは、もう大丈夫ですわ。神崎くんのおかげで、ずいぶん早く片付きました」
「そうですか」
「ええ」
なら、ここで終わってもいい。
俺は鞄へ筆記具を入れる。
「じゃあ帰ります?」
「……神崎くん」
「はい」
「それだけですの?」
「何がですか」
先輩は視線を下げ、それから困ったように口元を緩めた。
「いえ。何でもありません」
「そうですか」
追わない。俺が鼻で拾えるものも、見て分かるものも、ここまでだ。
何かを考えていたとして、それを俺が勝手に中身まで決める理由はない。話したくないなら、そのままでいい。
立ち上がろうとしたところで、
「……待ってくださる?」
声が落ちた。
俺は腰を戻す。
「はい」
先輩はすぐには続けなかった。
机の上の資料には、もう手を伸ばさない。
先輩は雨の向こうを見るように、窓へ視線を向けた。
「わたくし、自分が今していることを、間違っているとは思っていないのです」
「はい」
「けれど――正しいと思って進めていることと、それで本当にうまくいくと分かっていることは、別なのでしょうね」
先輩の声はいつも通りだった。
崩れていない。弱々しくもない。
「わたくしが卒業したあと、この作法室が本当に残っているのか。今できることをして、それで十分なのか……それは、分かりません」
雨が窓を細かく叩く。
「監査についても、部長である間は答えていかなければならないと思っています」
そこで一度、先輩は息をついた。
「それも、できないわけではないのです」
「はい」
「たぶん、できますわ」
その言い方が妙に先輩らしくて、俺は口元を緩めた。
「俺もそう思います」
「そこは、もう少し気遣ってくださってもよろしいのではなくて?」
「できると思ってる人に、できませんよって言う方が失礼じゃないですか」
「……本当に、神崎くんは」
先輩の声が柔らかくなる。
でも、それで話は終わらなかった。
「できるのです。これまでも、できることは自分ですればいいと思っていました。実際、その方が早いことも多かったですし」
視線が、さっき俺へ渡された束へ落ちる。
「ですが……できることと、一人で持ち続けて平気なことは、同じではないのですね」
「答えが出ないまま考え続けるのは、思っていたより重いものです。卒業した後のことも、監査のことも。誰かにお願いできる仕事なら、まだ分けられますけれど」
「これは、仕事にできない」
「ええ」
先輩が頷く。
「何をお願いすればよいのか、わたくしにも分かっていませんから」
お願いするものがない。
さっきの紙みたいに、照合だけ切り出して差し出すこともできない。
「少し、疲れました」
その一言は、取り繕いもせず、ただ事実として置かれた。
「……神崎くんになら」
先輩が俺を見る。
「まだ答えになっていないままでも、話してよいような気がしたのです」
予想していなかった言葉だった。
「どうしてでしょうね」
「俺に聞かれても分かりません」
一拍置いて、先輩の目元がわずかに緩んだ。
「ええ。そう答えると思いましたわ」
「すみません」
「謝るところではありません」
目元の柔らかさが消えた後も、先輩は目を逸らさなかった。
「たぶん、だからです」
「だから?」
「神崎くんは、分からないものを、分かったことにはなさらないでしょう?」
「……まあ、分からないんで」
「ええ」
先輩はそれだけ言った。俺は返す言葉を探す。
ここで何か正しいことを言える気はしなかった。というより、正しい答えがあるのかも分からない。
「先輩」
「はい」
「俺も、ここが残るって保証はできません」
「……ええ」
「監査に何て答えればいいかも、今は分からないです」
「はい」
「でも、今先輩が言ったことは聞きました」
先輩は黙っている。
「答えが出てからじゃないと話しちゃ駄目ってこともないと思います」
先輩の指が、ペンから離れた。
「今日やるものは終わった。明日でいいものは明日。ほかの人に渡せるものは、その時また分ける。先輩が決めることは先輩が決める」
「ええ」
「今決められないものは」
俺は言葉を切った。
「決められないまま、置いておけばいいんじゃないですか」
「置いておく……?」
「なくすんじゃなくて。答えが出てないって分かってる状態で」
分からないものを無理に結論へ押し込む方が、あとで面倒になる。
「少なくとも、先輩一人の頭の中だけに置いておく必要はないです。今は俺も知ってるんで」
先輩が目を伏せた。
しばらくして、先輩が息を吐いた。
「それでは、預けたことになるのかしら」
「たぶん」
「ずいぶん曖昧ですのね」
「答えがない話なんで」
今度は、先輩の肩からわずかに力が抜けた。
「……そうですわね」
窓の外では、まだ雨が降っている。先輩は机の上の資料を見渡した。
明日へ回す束を一つ重ね、確認済みの紙をファイルへ戻す。最後にペンをしまってから、先輩が言った。
「今日は、ここまでにいたしましょう」
「はい」
俺が言わせたわけではない。先輩が自分で決めた。
それで十分だった。二人で残った紙を片付け、湯呑みを所定の場所へ戻す。
照明を落とすと、さっきまでの作法室が急に広く見えた。廊下へ出て、先輩が戸を閉める。
鍵を確かめてから、俺たちは並んで旧校舎を歩いた。昇降口まで来たところで、澄へ短く連絡を入れる。
今から帰る。すぐに既読がついた。
「真白さんですの?」
「はい。帰る時に連絡しろって言われてたんで」
「ふふ。では、あまり遅くならないようにしませんと」
「もう十分遅くなってますよ」
「それは、わたくしにも責任がありますわね」
「半分くらいでいいです」
「半分?」
「今日は分けたんで」
先輩は一瞬きょとんとして、それから声を立てずに笑った。外へ出ると、雨はまだ止んでいなかった。
それでも、作法室に残してきたものは、さっきより少ない。紙の束だけじゃなく。
答えの出ていないものまで、全部一人のところには置かれていなかった。




