第62話 雨音の作法室と、預けられた重荷 2
「……残る、というのは」
「そのままの意味です」
鞄を下ろしたまま答える。
先輩は俺と、閉じた戸の方を交互に見た。
「ですが、神崎くんにお願いしていたものは、もう終わっていますわ」
「はい」
「真白さんにも確認していただきましたけれど、ここから先はわたくしの担当です」
「それも聞きました」
だから澄たちは帰った。今日の仕事は最初から分けられていたし、俺たちに渡された分は全部終わっている。
そこに文句はない。先輩も別に、仕事を隠して一人で抱えていたわけじゃない。
「でしたら……」
先輩が困ったように笑う。
「わざわざ残っていただく必要はありません。雨も降っていますし、今日は真白さんと帰った方が神崎くんも楽でしょう?」
それも正しい。
今から外へ出れば、湿った空気の中を駅まで歩くことになる。帰る時間が遅くなれば、その分だけ人の流れも変わる。
俺にとって、早く帰れるならその方がいい。
「そうですね」
「ええ。ですから――」
「でも、残ります」
先輩の言葉が止まった。
雨が屋根を叩いている。
強くも弱くもならない。同じ音が、一定の間隔もなく続いていた。
「……どうしてですの?」
責める声ではなかった。本当に理由が分からないらしい。
俺は言葉を選ぶ。説明するなら、順番くらいは選んだ方がいい。
「先輩が残るからです」
「それでは、理由になっていません」
「じゃあ、もう少しちゃんと言います」
俺は先輩の前に残った紙へ目を落とした。
「この前、先輩がやってる仕事を見せてもらったじゃないですか」
「ええ」
「その時より、今日はちゃんと分かれてました。俺たちに渡せるものは渡されてたし、みんな終わらせた」
「そうですわね」
「だから、今残ってるのが先輩の仕事だっていうのも分かります」
先輩が頷く。
ここまでは意見が同じだ。
「だったら、やっぱり――」
「でも、それと俺が帰るかは別です」
また止まった。
「別、ですの?」
「はい」
自分で言ってから、少し変なことを言っている気はした。手伝う仕事がない。
なのに残る。普段の俺ならまず選ばない。
仕事がないなら帰るし、必要がないなら関わらない。その方が楽だ。
けれど。
「俺、ここなくなると困るんですよ」
先輩が瞬く。
「作法室、ですか?」
「はい」
雨の日でも、ここなら呼吸が楽だ。外の湿気も、人の匂いも、教室に溜まった香料も、ここへ入れば一度切れる。
それだけじゃない。茶を飲んで、くだらない話をして、星野が余計なことを言って、柚木がそれに突っ込んで、澄がいつの間にか全員分の湯呑みを片付けている。
先輩が香の話を始めれば、たまに誰もついていけなくなる。いつの間にか、それが普通になっていた。
「学校の中で、俺が普通にいられる場所って、そんなに多くないんで」
口にすると、思っていたより直接的だった。
先輩は何も挟まない。
「ここを残したいのは、先輩だけじゃないです」
「……神崎くん」
「だから、先輩が部長だから残るっていうのは分かります。最後に判断するのも先輩でいいです」
そこを代わりたいわけじゃない。
できるとも思っていない。
香道部のことを一番知っているのは先輩だし、部長として決めなければならないことまで俺が触る方がおかしい。
「でも」
俺は一度、先輩の前の紙を見る。
「ここを守る理由まで、先輩一人の担当にされるのは違うと思います」
先輩の指先が、紙の端に触れたまま動かなかった。何か言おうとしているようにも見えたが、すぐには声が出ない。
俺は待つ。今聞きたいのは、目の前の人が何を言うかだ。
「……わたくしは」
少しして、先輩が口を開いた。
「皆さんへ負担を戻したいわけではないのです」
「分かってます」
「今日お願いしたことも、今後皆さんで続けていくために必要だと思ったからお渡ししました。でも、ここから先には部長として確認しなければならないことがあります」
「はい」
「でしたら、それはわたくしがするべきでしょう?」
声はいつも通り穏やかだった。言っていることにも筋が通っている。
たぶん、先輩が一人でやった方が早いものも多い。俺が残ったところで、全部を半分にはできない。
「先輩にしかできないことは、先輩がやればいいと思います」
「では――」
「本当に全部、先輩にしかできませんか?」
先輩が黙った。
「それは……」
「最終確認は無理です。部長判断も俺にはできません」
「ええ」
「でも、その前に見るだけのものとか、整理するだけのものもないですか」
先輩の視線が、目の前の資料へ落ちる。
「さっき澄が聞いた時は、ここから先は先輩の担当でした」
「そうです」
「それを疑ってるわけじゃないです。ただ」
一まとまりに見えているものを、一まとまりのまま持つ必要があるのか。数日前まで、先輩の仕事はもっと大きな塊だった。
そこから俺たちへ渡せるものが分かれた。なら、今残っているものにも同じことができないとは限らない。
「もう一回だけ分けてみるのは、駄目ですか」
先輩は答えなかった。代わりに、手元の紙を一枚めくった。
次の一枚。さらに、その下。
俺から中身までは見えない。先輩の視線だけが紙の上を移っていく。
「……こちらは、わたくしが確認しなければなりませんわね」
「はい」
「これもです。前の記録と合わせて判断する必要がありますから」
紙が右へ置かれる。
次も同じ側へ。
それから、先輩の手が止まった。
「これは……」
一枚を持ち上げる。
「記載の対応を確認してから、最後にわたくしが見れば足ります」
その紙だけ、さっきとは違う場所へ置かれた。さらに二枚。
三枚。最初は一つだった束が、少しずつ形を変えていく。
「こちらも、照合自体は判断ではありませんね」
「俺でもできます?」
「ええ。活動記録とこちらの一覧で、日付と記載に食い違いがないかを見るだけでしたら」
「じゃあ、それやります」
先輩の手がまた止まった。
「神崎くん」
「はい」
「今から帰っても、まだいつもの時間には十分間に合いますわよ?」
「知ってます」
「真白さんも待っているのではなくて?」
「帰る時に連絡しろって言われました」
「……そう」
ほんの少しだけ、先輩の口元が緩んだ。
それから手元の紙を見る。
「わたくしがやった方が、早いかもしれません」
「でしょうね」
「そこは否定してくださらないのね」
「やったことないんで」
先輩が笑った。
「本当に、神崎くんは」
その先は言わず、紙を揃える。
さっき分けた束のうち、一つを俺の方へ向けた。
「では、この部分だけお願いしてもよろしいかしら」
「はい」
「判断に迷うものは、こちらで決めずに残してください。最終的にはわたくしが確認します」
「分かりました」
「それから、分からない記載があれば聞いてくださいな」
「先輩、それだと普通に仕事振ってますよ」
「……そうですね」
先輩は自分の言葉を確かめるように、一度だけ俺の前の束を見た。
「ええ。お願いしています、神崎くん」
俺は鞄から筆記具を出した。
先輩も、自分の資料へ視線を戻す。
「じゃあ、始めます」
「お願いします」
最初の紙を開く。向かいでも、先輩がページをめくった。
雨音の続く作法室で。さっきまで一か所からしか聞こえなかった紙の音が、二つになった。




