第61話 雨音の作法室と、預けられた重荷 1
雨音は、作法室にいると少し遠く聞こえる。旧校舎の屋根を細かく叩く音が、途切れず続いていた。
窓の向こうは朝から灰色で、外へ出れば湿った空気が服へまとわりつく。けれど戸を閉めた作法室の中には、乾いた畳と紙、それからさっきまで飲んでいた茶の匂いが残っている。
雨の日としては、かなりましな場所だった。
「神崎、それ終わった?」
向かいから柚木が声を飛ばしてくる。
「今」
最後の欄を確認して、紙を一枚めくった。
俺に渡されていた分はこれで終わりだ。
少し離れたところでは、星野も自分の確認表とにらめっこしている。
「……よし。桜小路先輩、こっち終わりました」
「ありがとうございます、星野さん。そちらへ重ねておいてくださいな」
「はい」
星野が紙の束を揃えて、先輩の近くへ置く。その横では澄が茶器を片付け終えたところだった。戻ってくる途中で、自分に渡されていた資料を拾い上げ、残っていた二か所へ目を通している。
柚木も、俺へ確認していた紙をまとめ始めた。前なら、こうじゃなかった。
何かを確認するたび、最後は桜小路先輩の手元へ集まる。今も最終的な判断は先輩がする。それ自体は変わらない。
ただ、その前に俺たちへ渡せるものは最初から分けられている。俺が見るもの。
澄が確認するもの。柚木や星野でも処理できるもの。
先輩本人でなければ判断できないもの。少なくとも、全部を一人で抱えたあとから手伝えるものを探す形ではなくなっていた。
「先輩、あたしの方も終わりです」
柚木が束を差し出す。
桜小路先輩は一度中身を確認してから、穏やかに頷いた。
「ええ。ありがとうございます。これで大丈夫ですわ」
「じゃ、今日はちゃんと時間通り終われそうですね」
「それが普通なのですけれど」
「最近、その普通がちょっと怪しかったじゃないですか」
柚木が笑う。先輩も否定はせず、笑った。
そのやり取りを横で聞きながら、俺も自分の紙を揃える。今日は特に何かが起きたわけじゃない。
途中で星野が宿題の問題を柚木へ聞いて、なぜか二人で答えが割れていたくらいだ。澄が茶を淹れて。
先輩が香道の話をして。それぞれ自分に割り振られたものを進めた。
ただの部活動だった。時計を見る。
そろそろ帰る時間だ。俺が資料を戻している間に、星野が筆記具をしまい始める。
「今日、雨ずっと降ってますね」
「朝より少し強くなってるかも」
柚木が窓へ目を向けた。
「最悪。湿気で髪終わるんだけど」
「朝から気にしてましたよね、それ」
「気にするでしょ、普通」
「私はそんなに」
「くるみはそういうとこ強いよね」
「褒めてます?」
「半分くらい?」
「半分なんですね」
くだらない会話を聞きながら鞄を閉じる。
澄も自分の荷物をまとめたあと、まだ座っている桜小路先輩の方を見た。
「先輩」
「はい?」
「私たちにできること、もうありませんか?」
先輩の手元には、まだ紙が残っている。
少なくはない。
けれど先輩は少しだけ考えてから首を横に振った。
「大丈夫です。皆さんにお願いできる分は、これで全部終わっていますから」
澄の視線が、先輩の前に残った資料へ移る。
「そっちは?」
「ここからは、わたくしの確認が必要なものですわ。部長として最後に見ておきたいものもありますから」
言い方はいつも通りだった。無理に遠慮しているようにも見えない。
実際、今日の仕事はきちんと分けられていた。俺たちへ渡せるものは渡されて、それを俺たちが終わらせた。
なら、ここから先が先輩自身の担当だという説明にも筋は通る。澄も同じ判断をしたらしい。
「分かりました」
「ええ。今日はありがとうございました」
「いえ」
澄がそれ以上は言わない。
柚木も鞄を肩へ掛けた。
「じゃ、お先に失礼します。先輩もあんまり遅くならないでくださいね」
「ふふ。気をつけます」
「その返事、信用していいやつです?」
「柚木さん?」
「なんでもないです」
星野がその横で笑っている。俺も鞄を持ち上げた。
帰る。それでいい。
今日はもう、俺たちに残っている仕事はない。雨は面倒だが、今ならいつも通り澄と帰れる。
自宅へ戻れば、余計な匂いの少ない部屋があって、着替えて、夕飯を食べて、あとは静かに過ごせる。それが一番楽だ。
「慧くん」
戸口で澄が振り返る。
「帰ろうか」
「ああ」
答えて、そちらへ歩く。柚木と星野はもう廊下へ出ていた。
澄が戸を開けると、雨音が少しだけ大きくなる。その向こうには、湿った旧校舎の廊下。
そのまま一歩出ればいい。ふと、紙の擦れる音がした。
振り返る。桜小路先輩は、もう次の資料を開いていた。
俺たちが使っていた場所は片付いている。その中で、先輩の前にだけ紙が残っていた。
数日前にも見た光景だった。みんなへ仕事を渡したあとにも、この人の手元にはまだ何かが残る。
今日も同じだ。別に、先輩が困った顔をしているわけじゃない。
助けてほしいと言ったわけでもない。だから、そのまま帰っても何もおかしくない。
「慧くん?」
廊下から澄の声がする。俺はもう一度、桜小路先輩を見る。
先輩はこちらを見ていない。俺たちが帰ることを前提に、自分の仕事へ戻っている。
当然だ。俺も帰るつもりだった。
「……澄」
「うん?」
「悪い。先に帰っててくれ」
澄が一度だけ瞬いた。
「残るの?」
「ああ」
理由は聞かれなかった。
澄は俺と、その奥にいる桜小路先輩を順に見てから、頷く。
「分かった。帰る時、連絡してね」
「ああ」
「じゃあ、またあとで」
柚木と星野も足を止めていたが、澄が歩き出すと二人もそのまま続いた。
「神崎、また明日」
「お疲れさまです、神崎先輩」
「またな」
三人の足音が廊下を遠ざかっていく。やがて、雨音だけが戻ってきた。
俺は開いたままだった戸を閉める。その音で、ようやく桜小路先輩が顔を上げた。
「神崎くん?」
少し不思議そうな顔だった。
それも当然だろう。
それでも俺は、肩に掛けていた鞄をもう一度畳の上へ下ろした。
「俺、残ります」
桜小路先輩の手が、開いた資料の上で止まった。




