第58話 青嵐の作法室と、抱えた仕事 2
「それ、もう『軽い仕事』って言うの禁止にしません?」
星野が言った。
「禁止されるようなことではありませんわ」
作法室の奥で、桜小路先輩が書類から顔を上げる。
「次の茶葉の発注時期を確認していただけですもの」
「ほら、また言ってますよ」
「発注の確認くらいでしたら、軽い仕事でしょう?」
「桜小路先輩基準では、ですよね」
柚木まで加わって、先輩がわずかに眉を寄せた。中間試験が終わって、いつもの放課後が戻ってきた。
窓の向こうには、春より少し強くなった日差しが残っている。空調の入った作法室では、畳と木、それから薄い茶の匂いだけが静かに沈んでいた。
俺の前にも書類が広がっている。先輩から回された、備品関係の資料整理。
日付と品目を確認して、種類ごとに分けるだけの仕事だ。確かに、一枚ずつなら軽い。
ただし。
「神崎先輩も何とか言ってくださいよ」
星野に振られて、俺は書類から顔を上げた。
「発注の確認だけなら軽いんじゃないか」
「ほら」
桜小路先輩が胸を張る。
「それを他の仕事とまとめて一人で持ってなければ」
その動きが止まった。
「そう、それです」
星野が即座に食いつく。
「この前だって、私たちに仕事を振った後も桜小路先輩の分、全然減ってなかったじゃないですか」
「必要なものを手元に残しただけですわ」
「その『必要なもの』が多いんですよ」
「そうでしょうか?」
先輩は本気で分かっていないような顔をしている。たぶん、半分くらいは本当に分かっていない。
俺は手元へ視線を戻した。資料の端を揃えながら、次の束を見る。
茶葉、消耗品、備品、外部への発注記録。先輩から渡されたのは単純な整理作業だったが、並べれば自然と時期ごとの差も目に入る。
そこで、一つの記録に手が止まった。茶葉の購入量。
以前、先輩本人から聞いた話を思い出す。購入量を少し減らしていること。
補充の頻度や、使い方も見直していること。それ自体は、もう知っている。
監査の話が表に出るより前から始めていたこともだ。あの時は、単純な在庫調整だと思っていた。
使い切る前に買い足すのではなく、残量を見て補充する。余計に開封しない。
使い方を少し整理する。部活の消耗品管理としては、それほど変な話じゃない。
だから、それ以上の意味を考えなかった。
けれど。
俺は紙の上に並ぶ項目をもう一度見る。茶葉だけじゃない。備品の確認や発注、業者への連絡、保管物の管理まである。
さっきまで先輩が「軽い」と言っていたものが、同じような位置にいくつも並んでいる。この前、俺たちにいくつか仕事を渡した。
それでも、先輩の手元にはまだかなり残っていた。俺はそこで初めて、前に聞いた話と今見えているものを同じ線の上に置いた。
茶葉の購入量を減らし、補充の仕方と使い方も見直している。その本人が、発注だけでなく備品や外部連絡までまとめて握っている。
――これ、本当に茶葉だけの話だったのか?
「……神崎先輩?」
星野の声で顔を上げる。
「何ですか、その顔」
「どんな顔だよ」
「急に止まった顔です」
よく分からない分類だった。
柚木もこちらを見る。
「何かあった?」
「いや」
俺は手元の紙を軽く持ち上げた。
「ちょっと、前に聞いた話と繋がっただけ」
「前に?」
「茶葉の買い方を変えてるって話」
桜小路先輩がこちらを見る。
「以前、お話ししましたわね」
「ああ」
知っていた。
ただ、その意味を茶葉の補充方法だけに限って見ていた。実際に抱えている仕事を見ると、もう少し範囲が広い。
「神崎先輩、何か分かったんですか?」
星野が身を乗り出しかける。
「まだ分からない」
「まだなんですか」
「むしろ今、分からなくなった」
「増えてません?」
増えたというより、考える範囲が広がった。監査に備えた支出調整でも筋は通るが、先輩が部の運営そのものを整理していた可能性もある。発注も在庫も使い方も外部とのやり取りも、一つずつは小さい。それを同じ人間がまとめて触っている。
「……補充だけじゃないのか」
思わず口に出た。
柚木が首を傾げる。
「何が?」
「桜小路先輩が変えてたもの」
先輩の視線がこちらへ向く。
俺は手元の資料を見る。
「茶葉を減らしたのは前から知ってた。でも、今見ると、それだけじゃない」
備品の管理、発注、外部連絡、それに細かい仕事の振り分け。
「先輩、部の回し方そのものを変えようとしてたんじゃないですか」
一瞬、作法室が静かになった。星野も柚木も、すぐには口を挟まない。
答えが出たわけじゃない。ただ、考えるべきなのは茶葉を減らした理由だけではなく、桜小路先輩が香道部をどう回そうとしていたのかだ。
監査対策かもしれないし、無駄を減らしたかっただけかもしれない。自分に集中していた仕事を整理していた可能性もある。今ある資料だけでは一つに決められない。
日付や発注記録を追えば、いつ何を変えたかは分かる。でも、理由までは紙に書いていない。目の前に本人がいるなら、推測を重ねるより聞いた方が早い。
横から湯呑みが少しだけ近づいた。
「慧くん」
澄が俺を見る。
「冷めるよ」
「ああ」
手に取る。少し冷ました茶だった。
考え事をすると飲むのが遅くなることまで把握されているので、たぶん最初からこの温度にしてある。いつものことだ。
一口飲むと、ちょうどいい温度になっていた。湯呑みを戻して、顔を上げる。
桜小路先輩は黙ってこちらを見ている。
「神崎くん」
「はい」
「先ほどから、ずいぶん考え込んでいらっしゃいますけれど」
声はいつも通りだった。
「何か気になることでも?」
ある。前から知っていた茶葉の見直しに、この前見た仕事量と、今整理している資料を重ねる。先輩は、発注も備品も外とのやり取りも、俺が思っていたより広い範囲へ手を入れている。
何のために、どこまで変えようとしているのか。そこは本人に聞けばいい。
俺は資料から手を離して、桜小路先輩へ向き直った。
「一つ、聞きたいことがあります」




