第57話 青嵐の作法室と、抱えた仕事 1
試験が近づくと、作法室にある紙の意味が少し変わる。普段なら香道の記録や部の資料が置かれている畳の上に、今日は教科書とノートと問題集が広がっていた。
俺と澄と柚木は二年。星野は一年。桜小路先輩は三年。
学年が違えば開いているページも違う。それでも、五人そろって黙って紙へ向かっている光景だけ見れば、やっていることは同じだった。
香道部らしいかは知らない。試験前の高校生としては、たぶん正しい。
「ねえ、これってさ」
静けさを最初に破ったのは柚木だった。
「喋りながらでも机に向かってれば、勉強時間に入るよね?」
「好きに数えればいいだろ」
「その返し、冷たくない?」
俺が顔も上げずに返すと、少し離れたところから星野の声が続いた。
「でも、それだと『今日は三時間勉強しました』の中に雑談が二時間くらい入りません?」
「後輩にまで現実突きつけられたんだけど」
「私は可能性の話をしただけです」
「言い方が神崎に似てきてない?」
そこで初めて顔を上げる。
「俺を巻き込むな」
「ほら、そういうとこ」
何がそういうところなのかは説明されなかった。向かいでは澄が笑って、自分のノートへ視線を戻す。
一行書き足して、ページをめくる。少し前から、この部屋ではこういう時間が増えた。
誰か一人のために全員が動くでもなく、何か事件が起きているでもない。同じ場所にいて、それぞれ別のことをしている。
それで会話だけは時々つながる。俺は嫌いじゃなかった。
しばらくして、一つの区切りまで問題を解いたところで、脇に置いていた薄い紙の束へ手を伸ばした。桜小路先輩から前に任された、資料の仕分けと照合。
俺が見るのは、記録の順番や抜けの確認までだ。判断が必要なところが出てきたら、そこで先輩へ返す。
「慧くん、こっち」
澄が自分の勉強を止め、手元にあった一束を寄こした。
「順番だけ揃えておいたよ」
「ありがとう」
「うん」
それだけで、澄はまた自分のノートへ戻る。
俺も受け取った束を重ね、手元の記録と照らし合わせた。
「それ、こっちにも回せるやつある?」
柚木が問題集から顔を上げる。
「単純に分けるだけなら」
「じゃ、少し貸して。ずっと同じページ見てると飽きる」
「勉強から逃げる理由に使うなよ」
「気分転換って言って」
隣で星野が笑う。
「さっき雑談も勉強時間に入れようとしてた人が言うと説得力ありますね」
「今日、当たり強くない?」
「普通です」
そんなやり取りをしながらも、柚木は渡した分をきちんと分けた。星野も、自分の勉強が一区切りついたところで、脇に残っていた紙をまとめ始める。
それぞれの前に、少しずつ部の仕事が散っていた。だから最初は、桜小路先輩の方も特に気にしていなかった。
「桜小路先輩」
照合していた一枚で手が止まり、俺は顔を上げた。
「ここ、俺じゃ判断できません」
「見せていただけますか?」
渡すと、先輩は開いていた教材の横へその紙を置いた。
少し目を通し、別の資料と見比べる。
「ええ、ここはこちらで確認します。神崎くんは、その前までで大丈夫ですわ」
「分かりました」
俺は残りの束へ戻った。桜小路先輩も確認を終えると、その紙を脇へ置き、すぐ教材へ戻る。
別に変なことはない。部長なら、部長にしか判断できないことくらいある。
そう思って、俺も続きを始めた。数ページ進める。
途中で柚木と星野がまた何か言い合い、澄が一度だけ笑う。俺も一言返して、問題集へ戻る。
その間に、桜小路先輩は教材から顔を上げて、横に置いていた別の紙へ目を通した。書き込んで、戻る。
少しして、また別の資料を開く。それを閉じると、再びノートへ何か書いた。
切り替えは速い。先輩のノートも、最初に見た時より先へ進んでいる。
だから、しばらく気づかなかった。
「桜小路先輩、それ終わったらこっちでいいですか?」
星野の声に、先輩が顔を上げた。
「ええ。そちらはまとめておいていただければ大丈夫です。ありがとう、星野さん」
「はい」
星野が紙を自分の方へ引き寄せる。先輩は教材へ戻った。
俺の前にも、先輩から渡された束がある。柚木のところにもある。
星野のところにもある。
それなのに。
俺は一度、手を止めた。桜小路先輩の前を見る。
三年生の教材とノート。その横に、さっき俺が渡した紙。
さらに、途中で開いていた別の資料。一つ片づくたびに減っているはずなのに、教材へ戻る頃には別の紙が横にある。
一度なら、何とも思わなかった。二度目も、部長ならそんなものだと思った。
でも、その切り替えを何度見たか。少し前までなら、その裏にある事情の方から考えたかもしれない。
何か意味があるんじゃないか。何を考えているのか。
けれど、今はその前に見えるものがある。俺たちへ渡された紙は、それぞれの手元にある。
桜小路先輩のノートも進んでいる。その上でなお、先輩の前には次の仕事が来る。
「……思ったより多いな」
声には出さなかった。
理由は分からない。
ただ、量は見える。
「神崎くん?」
視線に気づいたのか、桜小路先輩がこちらを見た。
「何かございましたか?」
「いえ」
今ここで聞いても、問いが雑すぎる。忙しいんですか、と聞いて何が分かる。
大丈夫ですか、と聞くのも違う。目の前の先輩は普通に勉強を進め、必要な仕事も片づけている。
それ以上を決める材料はない。
「ちょっと見てただけです」
「そうですか?」
先輩は不思議そうにしたあと、柔らかく笑った。
「では、神崎くんもご自分の勉強へ戻ってくださいな」
「はい」
それは正しい。俺は問題集へ視線を戻した。
その後も、作法室の時間はいつも通り過ぎた。柚木が休憩を主張し、星野が「さっきから休憩多くないですか」と返す。
澄は二人のやり取りを聞きながら自分の教材を片づけ、俺も残っていた問題を区切りのいいところまで終わらせた。桜小路先輩も、最後には教材を閉じた。
「そろそろ今日はここまでにしましょうか」
先輩が周囲を見回す。
「試験前ですし、あまり遅くなってもよくありませんもの」
「賛成。もう文字が全部ちょっと嫌い」
柚木が即答した。
「文字に罪はないだろ」
「神崎、今それ言う?」
「言う」
「先輩、こういう時だけ元気ですね」
星野まで混ざる。
「元気じゃない。普通だ」
「それ、便利な言葉ですね」
澄がまた笑った。五人で教材と資料を片づける。
桜小路先輩も自分の紙をまとめ、戸締まりを確認し、俺たちと一緒に作法室を出た。廊下を歩きながら、俺はさっきの光景を思い返す。
教材は進んでいた。俺たちの前にも、それぞれ任された仕事があった。
それでも、桜小路先輩の前だけは最後まで紙が途切れなかった。頼れる先輩なのは何も変わらない。
むしろ、あれだけ切り替えながら普通に全部を処理している。だから今まで、目につかなかったのかもしれない。
桜小路先輩は、俺が思っていたより多くの仕事を抱えている。理由は、まだ分からない。
帰り道まで頭に残ったのは、その事実だった。




