第56話 薄暑の放課後と、消えない数字 6
「神崎」
隣から呼ばれて、顔を向ける。
柚木はさっきまでの軽い調子を少し引っ込めたまま、俺を見ていた。
「何?」
「一条会長のこと、もうちょい分かったとしてさ」
「うん」
「それで、部員の人数って増えるの?」
一瞬、意味を取り損ねた。
「増えないけど」
「この部屋をどのくらい使ってるとか、活動した記録とかは?」
「変わらないな」
「だよね」
柚木はそれだけ言って、前を向いた。旧校舎へ続く廊下は人が少ない。
靴音が二人分だけ残る。俺は手元の紙へ視線を落とした。
部員数、活動実績、専用の部屋をどの程度使っているか。一条会長が桜小路先輩と話す時だけ見せる小さな差とは、同じ紙の上には載らない。
「……いや」
頭の中で、一度組み直す。
「会長の個人的なものが、公的な判断に混ざってるなら、確認する意味はあるだろ」
「うん。それはあると思う」
柚木はあっさり頷いた。
「でも、それが分かったら、その次どうするの?」
「次?」
「会長が桜小路先輩に何か思ってるって分かりました。で、監査で見られてる数字はそのままです、ってなったら」
返そうとして、言葉が止まった。高科副会長の動きや一条会長の反応を見てきたこと自体は間違っていない。
高科副会長については、副会長としての仕事で十分に説明できた。一条会長には、桜小路先輩に対する時だけ、まだ小さな差が残っている。
でも、それが分かったところで。一条会長が桜小路先輩をどう思っていようと、香道部の人数は増えない。
高科副会長がどれだけ真面目に数字を扱っていても、作法室が実際にどう使われているかは変わらない。他の文化部にも同じ種類の確認が入っている。
そこまで考えて、ようやく引っかかった。俺は、人について分かれば、そのまま監査の答えにも近づけると思っていた。
「……別の問題か」
思わず口から出た。
「ん?」
「人の事情を知ることと、監査をどうにかすること」
柚木が俺を見る。
「今まで同じものとして考えてた」
「あー」
少し間を置いて、柚木が頷いた。
「それなら、なんか分かるかも」
「何が?」
「神崎、ずっと人の方見てたじゃん」
その言い方に引っかかる。
「見てたな」
「会長がどうとか、副会長がどうとか」
「必要だったからな」
「うん。必要じゃなかったとは言ってないって」
柚木は片手を軽く上げた。
「たださ。香道部のこと残したいなら、そっちも見ないとじゃない?」
そっち。言われなくても、指しているものは分かった。
俺たちの側だ。誰が何を考えているかじゃない。
香道部に実際に何があって、学校側から何が確認できるのか。何を変えればいいのかは、まだ分からない。
でも、次に見る場所は分かった。
「柚木」
「ん?」
「助かった」
「今日二回目」
「そうだっけ」
「そうだよ。珍しく素直じゃん」
口元を上げた柚木から、俺は視線を外した。
「必要な時は言う」
「はいはい」
少し楽しそうな声が返ってくる。ちょうどその先に、作法室の戸が見えた。
引き戸を開けると、廊下に残っていた雑多な匂いが薄くなる。畳と木。
湯の立つ気配。慣れた空気。
中には桜小路先輩と澄、それから星野がいた。
「おかえりなさい、慧くん。玲奈ちゃんも」
「ただいまー」
「お戻りでしたか、神崎くん。柚木さんも、お疲れさまでした」
星野もこちらを見て、手を上げる。
「神崎先輩、今度こそちゃんと戻ってきたんですね」
「今度こそって何だよ」
「最近、作法室にいるのに頭だけ生徒会室へ行ってる時あるじゃないですか」
言い返そうとして、やめた。
完全には否定できない。
柚木が吹き出した。
「くるみ、分かる」
「柚木まで乗るな」
「だって今も廊下でずっと難しい顔してたし」
「いつもとそんなに変わらないだろ」
「そこは否定しませんけど」
星野まで余計なことを言う。
澄が俺の前に湯呑みを置いた。
「今日は少し戻ってきた顔してるよ」
「顔で分かるのか?」
「ううん。なんとなく」
それなら反論のしようがない。
座って、持っていた紙を脇へ置く。
「桜小路先輩」
「はい」
「監査の件、少し見方を変えます」
先輩は急かさず、続きを待った。
「生徒会側の事情を追うのは、一回止めます。あっちが何を考えてるか分かっても、こっちの条件は変わらないので」
「こっちの条件、ですか?」
星野が首を傾げる。
「監査で実際に見られるもの。人数とか、活動してるかとか、学校から確認できる方」
説明しながら、さっきの柚木の問いが頭に浮かぶ。
数字は勝手には変わらない。
「まだ何をするかまでは決めてません」
先にそう付け足した。
「でも、次は香道部の方を見ます。ここで実際に何をやってるか。何があって、何が足りないか」
桜小路先輩は頷いた。
「ええ。それでよいと思います」
俺もそこで、手元の紙を脇へ寄せた。
「じゃ、今日は監査会議終わり?」
柚木が明るく言う。
「会議だったのか?」
「今の空気、完全にそうだったでしょ」
「私は普通にお茶飲んでましたけど」
星野が湯呑みを持ち上げる。
「くるみちゃん、それは参加していない側の証言だね」
澄まで乗った。作法室に笑いが広がる。
その後は、いつもの時間に戻った。星野が学校であったことを話し、柚木が途中から大げさに広げる。
澄が笑い、桜小路先輩が時々そこへ言葉を添える。俺も必要なところだけ返した。
監査の話をしていない時間にも、作法室は普通に動いている。考えてみれば当たり前のことなのに、今日はそれが妙に目についた。
活動終了の時間になり、全員で作法室を出た。途中で桜小路先輩、柚木、星野と別れ、澄と二人になる。
校舎を離れても、手元には放課後から持ち歩いていた紙が残っていた。
「慧くん」
「ん?」
「少し、すっきりした?」
答える前に、手元の紙を見た。
「たぶん」
「そっか」
澄はそれ以上聞かなかった。並んで歩きながら、もう一度紙を見る。
書かれている数字は、一つも変わっていない。誰の反応を読んでも消えない数字がある。
なら次は、その数字の向こうにある、こっち側の現実を見ればいい。




