第55話 薄暑の放課後と、消えない数字 5
生徒会室を出てからも、手元の紙は減らなかった。むしろ一枚増えている。
必要な参照先が分かった以上、作法室へ戻れば止まっていた整理を続けられる。目的としてはそれで十分だ。
廊下には、放課後まで残った人間の熱と匂いが薄く漂っていた。教室ほど密度は高くない。
歩く分には困らない程度だ。
「神崎」
聞き慣れた声に顔を上げた。
少し先で、別の方向から来た柚木がこっちへ歩いてくるところだった。
「おつかれ。生徒会終わった?」
「終わった」
柚木の視線が俺の手元へ落ちる。
「……その紙持って?」
「追加資料」
「全然終わった感じしないんだけど」
「用事は終わった」
「そういうとこだよね、神崎って」
何がそういうところなのかは分からない。
柚木はそのまま俺の横まで来た。
進む方向は同じだった。
「柚木も作法室か?」
「うん。戻るとこ」
それだけ確認して、並んで歩く。
しばらくして、柚木が「あ」と声を出した。
「そういえばさ。監査で思い出した」
俺は横を見る。
「何?」
「前からちょいちょい聞いてたんだけど、他の文化部でも似たような話あるっぽい」
足は止めないまま、意識だけをそっちへ向ける。
「似たような話って?」
「部員何人いるのとか、ちゃんと活動してるのとか、部室どう使ってるのとか。そういうの聞かれたって話」
それは、香道部で確認されているものと近い。
ただ。
「誰から聞いた?」
「そこ聞くと思った」
柚木が笑う。
「前に聞いてた分は結構バラバラ。友達が別の子から聞いたとか、『うちの部もなんか言われたらしいよ』とか。愚痴混じりのもあったし」
「じゃあ、それだけだと分からないな」
「でしょ? だから今まであたしも、へえーって聞いてただけ」
「今日、ちゃんと聞けたのか?」
「うん。話の流れで、実際に確認された側から」
柚木が指を折る。
「人数でしょ。活動してる記録。あと、専用で使ってる部屋をどのくらい使ってるか。そのへん」
三つ。
細部は違うかもしれない。
でも、種類は同じだ。
「香道部の話をして、それに合わせて答えてもらったわけじゃないよな」
「してないしてない。向こうから出た話」
「結果も同じ?」
「そこまでは知らない」
返事は早かった。
「聞かれた内容が似てるってだけ。その部がどうなるとか、香道部と同じ扱いされるとかは全然分かんない」
「なら十分」
「十分なの?」
「ああ」
少なくとも、確認できることが一つある。香道部にだけ、部員数を聞いているわけじゃない。
香道部にだけ、活動実績を求めているわけでもない。専用部室の利用状況について確認すること自体も、香道部専用に作られた質問ではなさそうだ。
もし香道部だけを潰すために用意した確認なら、同じ種類の質問を別の文化部へ向ける理由は薄い。もちろん、これだけで監査対象の全体像までは分からない。
全文化部に同じ確認が入っているとも限らない。確認項目が同じでも、部員数も活動実績も部室の使い方も違えば、出る判断まで同じになるとは限らない。
「なるほどな」
「お、なんか分かった顔」
「香道部だけを狙った監査じゃなさそうだ」
柚木が一度瞬く。
「今のでそこまで?」
「少なくとも、香道部だけに作った確認じゃない。別の部にも同じ種類の項目を見てるなら、そっちの方が自然だろ」
「あー……そっか」
納得したらしく、柚木が頷いた。
「そう考えると、周りの反応がバラバラなのも普通なのかな」
「反応?」
「うん。聞いてる感じだとさ」
柚木は歩きながら視線を上げる。
「『厳しくない?』って言ってる子もいるし、『専用で一部屋使ってるなら確認くらいされるでしょ』って感じの子もいるし。あと普通に、うち関係ないから知らないって子もいる」
「それは監査の正当性とは別だな」
「分かってるって」
即座に返された。
「そうじゃなくて、学校の空気の話。みんなが生徒会ひどいって怒ってるわけでもないし、逆に全員が当然って思ってるわけでもないってこと」
「ああ」
それなら意味はある。制度そのものの証拠にはならない。
でも、この件が学校の中でどう見えているか、その一端なら拾える。俺たちにとって、作法室を失うかもしれないという話は大きい。
桜小路先輩にとっては、もっと大きいだろう。少なくとも、柚木が聞いてきた範囲では、作法室の件を大ごととして見ているわけではなさそうだった。
作法室の中からだけ見ていると、その差は見えにくい。俺が紙と数字を見ている間にも、柚木の周りでは別の情報が流れている。
誰が何を言ったか。どの程度の話として受け取られているか。
どこまでが噂で、どこからが本人の話なのか。俺が細かく見られるものとは、種類が違う。
「助かった」
「え」
柚木がこっちを見る。
「今の話」
「……ああ、そっちね」
「他に何があるんだよ」
「別にー?」
口元を上げて、柚木は前を向いた。その反応を追う必要はない。
俺も手元の資料へ視線を落とす。監査は残る。
数字も残る。一条会長が桜小路先輩と話す時だけ見せた、あの小さな差も消えたわけじゃない。
ただ、それぞれを同じものとしてまとめる必要はなくなってきた。
「じゃあ」
口に出すと、柚木が反応した。
「ん?」
「やっぱり一条会長の方は、もう少し整理しておいた方がいいか」
「会長?」
「桜小路先輩にだけ反応が違ってた。あれが監査の判断にどこまで関係してるのかは、まだ分からない」
柚木が黙った。数歩進んでも返事がない。
珍しい。顔を向けると、柚木は眉を寄せて俺を見ていた。
「何?」
「いや……」
一度そう言ってから、柚木は前へ視線を戻す。
「神崎、そこはまだ気になるんだなーって」
「気になるだろ」
個人的なものがある可能性は高い。
それが公的な判断とは別だとしても、どこまで別なのかはまだ確かめきれていない。
そう考えていると、柚木が息を吐いた。
「ふーん」
何か言いたそうな返事だった。旧校舎へ近づくにつれて、人の残した匂いが少しずつ薄くなっていく。
作法室までは、もう遠くない。隣を歩く柚木は、さっきまでより少しだけ静かだった。
香道部だけが狙われている。その仮説は、もう捨てていい。
それでも俺はまだ、人の側に残ったものを見ようとしていた。




