第53話 薄暑の放課後と、消えない数字 3
旧校舎へ戻る頃には、生徒会室でまとわりついていた匂いが、だいぶ薄くなっていた。
人の出入りが多い場所に残る香料と汗。新しい紙とコピー機の熱。廊下へ出ても服には多少残るが、距離を取れば無視できる程度だ。
隣を歩く桜小路先輩からは、さっきまでと変わらない香の匂いがする。さっき一条会長に出ていた、あのわずかな差が頭に残っている。
桜小路先輩と話していた時だけ見えたものだ。ただ、それだけで監査全部が片付くわけでもない。
「神崎くん?」
声をかけられて顔を上げる。
「何でしょう」
「いえ。少し考え込んでいらしたので」
「さっきのことを考えてました」
「そう」
桜小路先輩はそれ以上聞かなかった。俺も続きを口にしない。
旧校舎の廊下を進み、作法室の前まで来る。桜小路先輩が戸を開けた。
「戻りましたわ」
「おかえりー」
柚木の声が先に飛んでくる。室内では、俺たちが出ていった時とほとんど変わらない放課後が続いていた。
柚木は低机にノートを広げ、片手にシャープペンを持っている。その斜め向かいでは星野が何かを書き写していて、澄は棚の前で道具を片付けていた。
待っていた、という空気じゃない。単に俺たちが戻ってきただけだ。
「神崎先輩、生徒会どうでした?」
「普通」
「その感想、情報量ゼロじゃないですか?」
「用事は済んだ」
「一個増えました」
星野が真顔で数える。
柚木が吹き出した。
「くるみ、神崎相手に情報量を求める方が間違ってるって」
「柚木に言われたくない」
「なんでよ」
「おかえり、慧くん」
棚から戻ってきた澄が俺を見る。
「ただいま」
そのままいつもの場所へ座ると、身体から余計な力が抜けた。
空調で抑えられた温度。古い畳と木。淹れた茶の薄い香り。
一つずつ拾う必要もない。呼吸しても、何も邪魔をしてこない。
机の端には、俺が途中まで整理していた資料がそのまま置かれていた。俺が手を伸ばすより少し早く、澄が横にあった束を寄せる。
「こっち、同じところの分」
「ありがとう」
「うん」
それだけ言って、澄はクリップの入った小箱を俺の手の届くところへ置いた。何をどこへ入れるかまでは触らない。
必要な物だけが、いつの間にか揃っている。いつもの澄だ。
資料を開く。さっき生徒会側で確認した内容を使えば、止めていた箇所もいくつか進められる。
日付を見て一覧と照らし、該当するものを揃えて、迷う数枚だけ脇へ置く。最初に桜小路先輩から渡された時には確認しながら進めていた手順も、今はもう手が覚えていた。
紙を一枚ずつ送っていると、向かいから星野の声がした。
「真白先輩、これってこっちで合ってます?」
「んー、たぶん。玲奈ちゃん、さっき使ってたのどっち?」
「そっちそっち。くるみ、それ終わったら貸して」
「はーい」
会話の間にも紙をめくる音がする。湯呑みが置かれる小さな音。
柚木が消しゴムを落として、星野に「近いんだから取って」と言い、星野が「柚木先輩の方が近いです」と返している。その横で桜小路先輩は、自分の資料を処理していた。
誰か一人がこの部屋を動かしているわけじゃない。それぞれ別のことをしているのに、同じ放課後の中に収まっている。
俺は日付の並びから外れた一枚を脇へ避けた。紙を一枚ずつ送りながら、生徒会室で見たものを頭の隅で並べ直す。
一条会長だけ見て終わり、というわけにはいかない。監査の実務を中心で扱っていたのは、もう一人いる。
高科副会長。高科副会長の方も、今まで見えている動きを一度整理しておけばいい。
怪しいからじゃない。片方だけ確認して終える方が雑だ。
そこで思考を切った。今、目の前にあるのはこっちだ。
残りを順番に処理して、最後の一枚を束へ戻す。クリップで留めたところで、横から湯呑みが少し近づいた。
顔を向ける。澄は何も言わず、自分の湯呑みに口をつけていた。
俺の方は、さっきより机の中央に寄っている。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
見ていたらしい。
一口飲む。
少しぬるくなった茶が、ちょうどいい。
「終わりました?」
星野が覗き込んでくる。
「この束は」
「早っ」
「量はそんなになかった」
「神崎、こういうの地味に向いてるよね」
柚木がノートから顔を上げる。
「地味には余計だろ」
「褒めてる褒めてる。細かいのちゃんと見つけそうだし」
「そうか」
「そこ、もうちょっと喜んでもよくない?」
「褒め方を考えろ」
「地味が引っかかってるじゃん」
星野が笑う。
俺は脇へ避けていた数枚を一番上に乗せ、桜小路先輩の方へ寄せた。
「桜小路先輩」
「はい」
「ここまで終わりました。上の数枚だけ確認お願いします」
桜小路先輩が手を止める。
受け取った束へざっと目を通し、上に置いた一枚を抜いた。
「ええ。こちらはわたくしが見ます」
「お願いします」
残りにも視線を通してから、先輩は頷いた。
「他はこのままで大丈夫ですわ。ありがとうございます、神崎くん」
「はい」
それで終わると思った。
桜小路先輩は束を自分の側へ置き、それから手元に残っていた資料へ目を落とした。
一部を取り分ける。
「では、神崎くん」
「はい」
「こちらもお願いしてよろしいかしら。先ほどと同じ要領で結構です」
薄い束が、俺の前へ置かれる。
「分かりました」
受け取る。それだけだった。
桜小路先輩はもう自分の作業へ戻っている。俺も一枚目を開いた。
終わったものを返したら、次が来た。身構える理由もなく、俺もそれを受け取っていた。
「慧くん、クリップもう少しいる?」
隣から澄が聞く。
手元を見る。
「たぶん」
「じゃあ、ここ置いとくね」
小箱の中身が少し足された。向こうでは柚木と星野が、まだ何か言い合っている。
桜小路先輩の手元では紙がめくられている。俺の前にも、次に見る資料がある。
監査のことはまだ終わっていない。分からないものも残っている。
それでも、この時間まで止める必要はないらしい。俺は桜小路先輩から渡された一枚目の日付を確認して、一覧の上へ重ねた。




