第52話 薄暑の放課後と、消えない数字 2
資料の端に挟んだ付箋を一枚ずらし、次の項目へ目を落とす。
さっきまで分からなかった分類は、一条会長と高科副会長に確認したことでだいぶ整理できた。元の記録へ戻れる形を残して、同じ実績を別々の数字として増やさない。期間や条件が違うものは、そのまま横に並べない。
やることが分かれば、あとは面倒でも手を動かせば終わる。紙をめくる音と、離れた机から聞こえる筆記具の音だけが続いていた。
一条会長も、さっきから変わらない。
呼吸は一定。こちらの資料を確認する時も、必要な箇所へ視線を落とし、必要なことだけ答える。監査の日に拾ったような妙な硬さは、今のところない。
俺はまた自分の紙へ視線を戻した。入口の方から、控えめなノックが聞こえた。
「どうぞ」
一条会長の声に続いて扉が開く。
「失礼いたします」
聞き慣れた声だった。
顔を上げる。
桜小路先輩が、薄い書類の束を手に立っていた。
「……神崎くんもいらしたのね」
俺を見つけた先輩が、目を細める。
「資料の確認です」
「そうでしたか。わたくしも少し、こちらで済ませておきたいことがありまして」
それだけ言うと、先輩は俺のところへ来るでもなく、一条会長の方へ向かった。
部長としての、先輩自身の用事らしい。
俺は資料へ視線を戻して、次の記録に鉛筆で小さく印をつけた。
「一条さん。こちら、今日中に確認しておきたいのですけれど」
その声に。紙を送ろうとしていた一条会長の手が、一度だけ止まった。
ほんの一瞬だ。知らなければ見落とす程度の間。
「……はい。見せてください、桜小路さん」
返答はいつも通りだった。ただ、その前に一度だけ、浅く息を入れ直している。
桜小路先輩が書類を差し出す。一条会長は受け取ると、上から順に確認していった。
「この部分について、香道部側ではこちらの記録で足りると考えております。追加が必要でしたら用意しますけれど」
「この記録が残っているなら、現時点では十分です」
一条会長は答えた。
「ただ、こちらの期間については、他の資料と同じ範囲で確認できる形にしてください。香道部だけ別の長さで見ると比較ができません」
「ええ。そこは揃えておきますわ」
「お願いします」
短いやり取りが終わる。
一条会長は次の紙へ目を移した。
桜小路先輩が別の点を尋ねる。
「では、こちらはどうでしょう?」
また、ほんのわずかな間があった。
「その部分は、提出済みの記録で確認できます。追加は必要ありません」
声が震えるわけでもない。言葉を間違えるわけでもない。
むしろ、余計な言葉が減っていた。返答が短くなって、必要な線だけが残る。
監査の日にも似たものを見た。あの時は比較する基準がなかった。
一条会長はもともとこういう話し方をする人間なのかもしれないし、監査という場そのものが原因だった可能性もあった。でも、少し前まで俺と話していた時にはなかった差が、桜小路先輩との応答ではまた出ている。
一度なら偶然で済む。二度目なら、桜小路先輩との応答でだけ差が出る可能性は前より高い。
ただ、部長という立場や監査でのやり取りでも説明はできる。拾えたのは、普段と違う差が出たことまでだ。
「こちらは?」
桜小路先輩が、最後にもう一枚を示した。
一条会長の指先が紙の端へ触れる。
「その項目は、香道部だけにお願いしているものではありません」
紙面を確かめてから、一条会長は言った。
「対象になっている団体には、同じ基準で確認しています。提出済みの資料で確認できる部分まで、作り直す必要はありません。不足しているところだけで大丈夫です」
「分かりました。それでしたら、こちらで用意できます」
「では、それでお願いします」
桜小路先輩は素直に頷いた。それで終わりだった。
言い争いもない。皮肉もない。
一条会長の反応には、桜小路先輩が来る前とは違うところがある。けれど、返ってきた答えは、さっきまで俺が聞いていた話と同じ線の上にあった。
期間を揃える。確認できるものはそのまま使う。
不足しているものだけ補う。先輩が相手になったからといって、別のルールが増えたわけじゃない。
「神崎くん」
呼ばれて顔を上げる。
一条会長がこちらを見ていた。
「先ほどの件ですが、その整理で進めてもらって大丈夫です。確認できない箇所が出たら、また持ってきてください」
「分かりました」
俺の用件への答えも変わっていない。俺は付箋の位置だけ確認して、資料を閉じた。
これ以上ここにいる必要はなかった。知りたかったことを聞きに来て、その途中でもう一つ比較材料が増えた。
十分だ。
桜小路先輩も書類をまとめ終え、一条会長へ軽く頭を下げる。
「ありがとうございました。一条さん」
「いえ。追加分は、揃ってからで構いません」
「承知しました」
先輩が扉の方へ向く。俺も資料を抱えて席を立った。
廊下へ出ると、室内に溜まっていた紙と人の匂いが少し薄れる。隣には、用事を終えた桜小路先輩がいる。
先輩は何も言わず、いつもの歩調で旧校舎の方へ足を向けた。俺もその隣を歩く。
一条会長には、桜小路先輩と直接話す時だけ普段とは違うところがある。その可能性は前より上がったが、意味も監査との関係もまだ分からない。




