第51話 薄暑の放課後と、消えない数字 1
監査資料の整理は、机の上だけでは終わらなかった。活動記録を監査項目へ当てはめていくと、どう扱うべきか判断のつかない箇所がいくつか出る。こちらの都合で分類して、あとから意味が違ったでは困る。
いつもの部活動が始まってしばらくした頃、俺は付箋を挟んだ資料を持って作法室を出た。扉が閉まる。
薄い茶と畳の匂いが遠ざかり、代わりに廊下へ残った汗、洗剤、紙、床のワックスが鼻へ戻ってきた。作法室よりは面倒だが、昼間の教室ほどではない。用件を済ませる程度なら問題ない。
歩きながら、監査の日のことを思い返す。一条会長が桜小路先輩とやり取りしていた時。
声も姿勢も崩れてはいなかった。ただ、呼吸と、皮膚から立つものと、薄い汗。表面には出ないところで、普段とは違う反応があった。
それとは別に、監査資料そのものにも筋が通っている。部員数、活動実績、施設の使い方、他の団体との公平性。
ちょうど今日は資料の扱いを確認する用事がある。まずは必要なことを聞けばいい。その間に分かることがあれば、覚えておく。
目的の場所まで来ると、一条会長と高科副会長はすでに別の資料を広げていた。
紙をめくる音。ペン先が走る乾いた音。少し離れたところから混じる人の気配。
作法室ほど静かではないが、予想していたよりはましだった。
「失礼します」
二人が顔を上げる。
「神崎くん。どうしましたか」
一条会長の声は落ち着いている。
「香道部の資料で、扱いを確認したいところがあります」
「見せてもらえる?」
高科副会長が手を止めた。
俺は付箋を挟んだページを開き、机の端へ置く。
「ここの記録です。同じ活動日の内容が、複数の確認項目に関わっています。こっちで分けて書き直すより、元の記録を残したまま対応させた方がいいですか」
高科副会長はページへ視線を落とした。
「その方がいいね。元の記録を一つ残して、関係する項目から同じ記録を確認できる形にしておけばいい。別の実績として数を増やす必要はないよ」
「分かりました」
「あと、こっちは活動内容だけじゃなく、施設を使った理由が分かる記録も一緒にしておいた方が比較しやすい」
指先が別の箇所を示す。説明は短い。
何を残して、何を分けるか。その順番だけがきれいに出てくる。
高科副会長らしいと言えば、それだけだった。
「会長、この扱いで問題ない?」
高科副会長が確認すると、一条会長は資料を一度見てから頷いた。
「はい。元の記録へ戻れる形なら、その整理で構いません。香道部側で新しい数字を作る必要はありません」
返事までの間は短い。姿勢も、呼吸も一定だった。
この距離なら拾える皮膚からの揮発や、ごく薄い汗にも、監査の日に感じた変化はない。俺がいて、机には香道部の資料があり、話題も監査に関係している。それでも、あの時と同じ反応は出ていない。
「神崎くん、もう一つ」
高科副会長の声で、視線を紙へ戻した。
「この記録は期間を揃えた方がいい。長さが違うものをそのまま並べると、活動量の比較としては見づらくなるから」
「同じ範囲で揃えるんですね」
「うん。比較するなら条件は同じ方がいい」
その言葉に、ペンを持つ手が一瞬止まった。比較するなら、条件は同じ方がいい。
当たり前の話だ。紙の上でも、たぶん人間でも。
俺は資料へ短く印を付けた。一条会長はその間にも別の確認を進め、高科副会長も説明が終わると自分の資料へ戻った。
香道部の人間が来ても、二人は必要なものを見て、必要なことだけ答えている。少なくとも今ここで、香道部そのものへ向いた露骨な敵意は感じない。監査の日に拾った違いが今日はない。それだけ覚えておけばいい。
俺は付箋の横へ、高科副会長から確認した扱いを書き込んだ。監査の日と今日では違うものが多すぎる。
場所も、会話の内容も、相手も違う。その中で、一番分かりやすく違っていたのは桜小路先輩だった。
また二人が普通に話す機会があれば、その時は今日と比べられる。なければ、それまでだ。
わざわざ確かめるためだけに動くほどのことでもない。
「確認したかったのは以上です。ありがとうございます」
「整理が進んだら、また不明なところだけ持ってきてください」
一条会長が答える。
「全部を生徒会側の形式に合わせる必要はありません。香道部で実際に残している記録から、確認できるようにしてください」
「分かりました」
俺は頷き、資料へ視線を落とす。今日ここで拾えるものは拾った。あとは目の前の作業を進めればいい。
付箋を一枚ずらし、次の記録を開く。その横では、一条会長と高科副会長の仕事も途切れずに続いていた。
人の反応に違いがあっても、紙の上の数字はそのまま残っている。




