第50話 若葉の旧校舎と、揺らぐ居場所 6
監査が終わっても、作法室の中身まで別物になるわけじゃない。低い机には湯呑みが並び、その端に活動記録と監査資料が何枚か置かれている。
茶を飲む場所と、書類を広げる場所が同じ机の上にあるのは、少し前までなら妙な光景だった。今はもう、それほどでもない。
「これ、お茶こぼしたら監査より先に桜小路先輩に怒られますよね」
星野が湯呑みを両手で持ったまま、机の紙束を見下ろす。
「怒りませんよ」
先輩は穏やかに答えた。
「新しく印刷し直していただくだけです」
「それ、怒られるより怖くないですか?」
「くるみちゃん。こぼす前提で話すのやめなって」
柚木が笑いながら自分の湯呑みを少し遠ざけた。
「くるみちゃん、その辺りに置こうか」
澄が空いた盆を寄せる。
「ありがとうございます、真白先輩。ほら、私はこうして事故を未然に防げる女なので」
「防いだの澄だけどな」
「神崎先輩、そういう細かい事実確認いります?」
いらない気もする。ただ、こういうどうでもいい会話が戻ってきたことには、安心していた。
監査が入った日から、机の上には以前より紙が増えた。人数。
活動の見え方。この部屋の使い方。
学校の設備や予算を使う以上、こちらだけの都合では済まないもの。整理してみれば、どれも完全に意味不明な指摘ではない。
だから面倒だった。
「結局さ」
柚木が一枚の紙へ視線を落とす。
「これ、あたしたち側で変えられるのってどの辺なんだろ」
その言葉で、星野も紙の方を向いた。先輩が何かを宣言したわけでもない。
長谷川先生も湯呑みを持ったままだ。ただ、雑談の中心が少しずつ紙の上へ寄っていく。
俺も手元にあった監査項目のメモを開いた。
「全部を一度に変える必要はないと思うけどな」
「じゃあ、一個ずつ?」
「一個ずつというより、こっちで触れる場所と、学校側じゃないと触れない場所を分けた方がいい」
「なるほど」
星野が頷いたあと、ぱっと顔を上げた。
「だったら、人を呼ぶのはどうですか?」
「人?」
柚木が聞き返す。
「はい。ここって、外から見ると何してる部活なのか分かりにくいじゃないですか。だったら、実際に見てもらえばいいんですよ」
星野は身を乗り出した。
「体験できる日とか作って。ちょっと覗くだけでもいいし。初心者でもできるやつがあったら楽しそうですし」
その最後の一言だけ、監査への対応というより本人の興味がかなり混じっている。
悪いことではない。
俺は監査項目へ目を戻した。
「活動が見えにくいって部分には効くかもな」
「ですよね?」
「でも、それだけで他の指摘まで片付くわけじゃない」
「そこは勢いでなんとかなりません?」
「学校の監査を勢いで突破しようとするな」
「神崎先輩、夢がないです」
「監査資料に夢を求めるなよ」
「そもそもさ」
柚木が星野の案を否定するでもなく、首を傾けた。
「普通の生徒って、体験やりますって言われたら本当に来る?」
星野が止まる。
「……来ません?」
「いや、来る人はいると思うよ? でも香道部って、そもそも何するのか知らない人も多いじゃん」
「それは……そうですね」
「あと、旧校舎の一番奥まで来て、知らない先輩たちがいる部屋に入るんでしょ。興味ない子からしたら、ちょっとハードル高くない?」
星野は今度は机へ肘をつかず、真面目に考え込んだ。
「じゃあ、何するか先に分かるようにするとか」
「それなら入りやすくなるかも」
「お菓子もありますって書きます?」
「急に客寄せの方向が露骨」
「大事ですよ、入口は」
長谷川先生がそこで湯呑みを置いた。
「お菓子はあった方がいいと思う」
「先生、お菓子のところだけですよね?」
柚木の問いに、先生は即答しなかった。
「否定はしない」
「しないんだ……」
話が横へ逸れかけたところで、澄が紙から顔を上げた。
「人を入れるなら、来てもらう前のことだけじゃなくて、中に入ってからのことも考えた方がいいと思う」
「中?」
星野が澄を見る。
「道具の扱い方を誰が説明するかとか、終わった後の片付けをどうするかとか。人数が増えるなら、普段と同じ準備のままでは難しいかもしれないし」
「ああ……」
星野の声から勢いが抜けた。
「言われてみれば、呼んで終わりじゃないですね」
「一度にたくさんじゃなくて、少人数ならやりやすいかもしれないね」
澄はそう言って、机の上の道具を見た。確かに、呼ぶだけなら簡単だ。
実際にここへ人が来れば、説明する相手も、片付ける手も増える。人数が変われば、いつもの作法室の回し方も変わる。
「あと、一応言っておくけど」
長谷川先生が続ける。
「校内の生徒を部活動としてここへ受け入れるなら、部だけで『明日から自由にどうぞ』とはできないからね」
「やっぱりですか」
星野が肩を落とす。
「やっぱりです」
先生は即答した。
「場所の使い方と安全面、それから必要なら学校への申請。内容によって確認することは出てくる」
「じゃあ無理ってこと?」
柚木が聞くと、先生は首を振った。
「無理とは言ってない。何をするか考えるのはみんなでやっていい。その上で、教師じゃないと確認できないところは、わたしが見る」
それだけ言って、先生はまた茶を飲んだ。
答えを出したというより、線を一本引いただけだ。
その線より内側は、まだこっちで考えられる。
「なるほど……」
先輩が頷いた。
「体験していただくこと自体は、検討する価値がありそうですね。ただ、実施するなら準備も含めて考える必要がある、と」
「それで人が来たら、活動してるってことも分かってもらえますし」
星野が言う。
「でも、それだけで部員増えました、予算の問題も解決しました、とはならない」
柚木が続ける。俺は手元の紙へ線を引いた。
星野の案から、監査項目の一つへ。もう一つへは途中まで。
そこで止める。
「神崎、何してんの?」
「どの案がどこに効くか見てる」
「表にするの?」
「そこまではしてない」
今のところ、そこまで整っていない。
一つの案で全部が片付くわけではない。
ただ、何を変えれば何が動くのかは、少しずつ見えてきた。
「必殺技みたいなの、ないんですね」
星野が残念そうに言った。
「学校の問題に必殺技を求めるなって」
柚木が笑う。
「あるならわたしも知りたい」
長谷川先生まで乗る。
「職員室でも使いたいから」
「先生が一番切実じゃないですか」
「大人には大人の事情があるの」
今度は先輩も笑った。
その笑い方は、監査直後に見たものよりずっと自然だった。
「でも、ありがたいです」
先輩は机の上を見回した。
「皆さんが考えてくださったこと、一度整理してみましょう。実際にできることと、確認が必要なことを分ければ、もう少し見えやすくなると思います」
言いながら、先輩は散らばっていたメモを自分の側へ寄せ始めた。
それぞれの話が、同じ束の中へ収まっていく。
最後に揃えるところだけは、まだ先輩の手元に残った。
「先輩」
「はい?」
「また整理するものがあったら、俺に回してください」
先輩の手が一瞬止まった。
それから、柔らかく頷く。
「ええ。その時はお願いします、神崎くん」
それ以上は言わなかった。前なら、たぶん俺も言わなかった。
話はそこで終わった。いや、正確には、終わらせた。
今日ここで答えを作り切る必要はない。湯呑みを下げ、道具を片付け、資料は先輩がまとめる。いつもの活動終了の流れへ戻っていく。
監査で示された条件は、前より整理できた。香道部側で変えられそうな部分も見えた。
その一方で、監査の場で見た一条会長の反応だけは、まだきれいに置く場所がない。今すぐ何かをするほどの話ではないが、次に同じ条件が揃うなら見ておく価値はある。
「慧くん、帰ろうか」
澄の声で顔を上げる。
机の上は、もうほとんど片付いていた。
「ああ」
立ち上がって、澄と並んで引き戸へ向かう。作法室には今日も、茶の時間とくだらない会話と、まだ答えの出ていない紙の束が残った。
全部は解けていない。でも少なくとも、もう先輩一人の机の上だけにある問題ではなかった。




