第49話 若葉の旧校舎と、揺らぐ居場所 5
監査で脇へ寄せていたものを元に戻していくと、作法室は少しずついつもの形に戻った。
星野が香炉の前へ座り直し、使いかけだった道具を片づける。柚木は畳の端へ避けていた自分のプリントを拾い、澄は高科副会長が資料を広げていた机から湯呑みを下げた。
「なんか、一気に疲れた気がする」
柚木が肩を回しながら言う。
「玲奈ちゃん、ほとんど座ってただけじゃない?」
「精神的にって意味」
「それなら少し分かります」
星野が笑った。監査が始まる前ほど軽くはない。
それでも、さっきまで全員が同じ資料と二人の言葉へ意識を向けていた時より、部屋の中に別々の音が戻っている。
紙。湯。戸棚。筆記具。
俺も脇へ寄せていた文庫本を手元へ戻した。栞を挟んでいたところから、数ページ読み進める。
そこで、紙を重ねる音が続いていることに気づいた。桜小路先輩だった。
監査で使っていた薄いファイルを閉じたあとも、先輩の手は止まっていない。机の上に残った資料を分け、別の帳面を開き、何かを確かめては紙を重ね直している。
監査は終わった。でも、桜小路先輩の仕事まで終わったわけじゃないらしい。
別に、困った顔をしているわけではなかった。手が止まっているわけでもない。
誰かへ助けを求める様子もない。たぶん、放っておけばそのまま一人でやるんだろう。
それ自体は珍しくない。桜小路先輩は、できることなら自分でやる。
今までだって、作法室の道具も、活動の記録も、俺が知らないところでそうやって整えられてきたはずだ。いったん本へ目を戻す。
さっき監査で見られていたものを思い出した。
活動記録。部員数。設備。利用状況。
この部屋が必要だと思うだけでは足りない。学校側から見ても、ここを使い続ける理由が分かる形にする必要がある。
そこまでは、もう分かった。そして俺は、この場所がなくなったら困る。
それなのに、そのための作業を全部桜小路先輩のものとして眺めているのは、少し違う気がした。香道の判断はできない。
学校へ何をどう説明するべきかも、俺にはまだ分からない。
でも。
机の上にあるもの全部が、先輩にしか触れない仕事には見えなかった。栞を挟んで、本を閉じた。
「桜小路先輩」
「はい?」
先輩が顔を上げる。
「その資料、俺でもできる部分ありますか」
一瞬だけ、先輩の目が止まった。
「神崎くんが?」
「はい。内容を決めるのは無理ですけど、仕分けとか、日付や項目を見比べるくらいならできます」
先輩は手元の資料へ視線を落とした。
「お気持ちは嬉しいですけれど、無理をなさらなくても大丈夫ですわよ」
「無理じゃないです」
そこはすぐに返せた。
「俺もこの部屋を使ってますから。残すために必要な作業なら、できるところくらいはやります」
言ってから、少しだけ妙な感じがした。なくなったら困る。
だから、できることがあるならやる。桜小路先輩は俺を見たあと、もう一度資料へ目を落とした。
断る理由を探している、という感じではなかった。何を渡せるかを見ているように見える。
「……では」
先輩が一つの薄い束を抜き出した。
「こちらをお願いしてもよろしいかしら」
「何を見ればいいですか」
「この活動記録を日付順に並べて、こちらの一覧と同じ項目があるものに印をつけていただける? 内容の判断が必要そうなところは、そのまま残してください」
「分かりました」
「判断はこちらでしますから、揃っているかどうかだけ見ていただければ十分ですわ」
「はい」
差し出された紙を受け取る。古い紙と新しい紙で、乾いた匂いが少し違う。
それ以上に、手元へ来たものが妙に具体的だった。少し前まで、桜小路先輩の前にあった仕事だ。
今はその一部が、俺の前にある。
「……神崎、自分から?」
向こうで柚木が言った。
「何だよ」
「いや。面倒そうな紙仕事、普通に引き受けるんだなって」
「必要ならやるだろ」
「神崎先輩、こういうの細かそうですもんね」
星野までこっちを見る。
「褒めてるのか?」
「半分くらいは」
「残り半分は何だよ」
「内緒です」
星野が笑って、手元の道具へ戻った。
澄は何も言わず、俺の横へ小さな紙片の束を置いた。
「印つけるなら使う?」
「ん。助かる」
「どういたしまして」
澄も自分の場所へ戻る。俺は資料を一枚ずつ見始めた。
日付を見る。一覧の項目を確かめる。
該当するものに紙片を挟む。判断が必要そうなら触らずに分ける。
数枚進めたところで、一枚だけ手が止まった。
「先輩」
「はい?」
「これ、日付は同じですけど、項目名が少し違います」
紙を向ける。
桜小路先輩は一度だけ内容を確認した。
「そこはわたくしが見ます。分けておいてくださる?」
「分かりました」
横へ避け、次の紙を取る。
しばらくすると、目の前の束は三つに分かれた。
向こうでは柚木がプリントを終えたらしく、星野の片づけを手伝っている。
「これ、こっちでいい?」
「それは上です」
「また?」
「玲奈ちゃん、前も間違えてたよ」
「なんでみんな覚えてるの?」
澄の声まで混ざった。いつもの作法室だった。
違うのは、俺の前に本と活動記録が並んでいることくらいだ。最後の数枚を確認して、束を揃えた。
「先輩。ここまで終わりました」
「ありがとうございます」
桜小路先輩が手を止め、俺が分けた三つを見る。
「こちらは一致しているもの。こちらは該当なし。こっちは俺だと判断できなかったものです」
「ええ。分かりやすいです」
先輩は一番端の束だけ開き、数枚確認した。
「これなら十分です。助かりました、神崎くん」
「ならよかったです」
先輩は受け取った資料を自分の帳面の横へ置く。
俺は文庫本をもう一度開いた。
しばらくして、先輩が時計を見た。
「今日はこのくらいにしましょうか」
「はーい」
柚木が伸びをする。星野も道具を戻し、澄が湯呑みをまとめる。
俺も文庫本に栞を挟んで閉じた。片づけを済ませ、鞄を持つ。
最後に桜小路先輩が机の上の資料をまとめた。その中には、俺が揃えた薄い束も混ざっている。
引き戸を閉めて、五人で旧校舎の廊下へ出た。いつも通り、澄が隣へ並ぶ。
「帰ろっか」
「ああ」
奥から離れるほど、人の声が少しずつ増えてくる。作法室は今日も、さっきまでと同じ場所に残っている。
明日から急になくなるわけでもない。それでも、残るのが当然だとは、もう思っていなかった。
引き戸の向こうには、俺が揃えた紙の束が一つ残っている。少し前まで、あの机に俺の仕事なんてなかった。




