第48話 若葉の旧校舎と、揺らぐ居場所 4
「活動記録はこちらです」
桜小路先輩が、手元に置いていた薄いファイルを高科副会長へ差し出した。高科副会長は受け取ると、最初から順に読み始めるようなことはしなかった。いくつかのページを確認し、手元に持ってきた資料と見比べる。
さっきまで見ていたのは、この部屋だった。五人いること。
畳や水屋があること。香炉や香材が、実際の活動に使われていること。
今、高科副会長が見ているのは違う。今日ここで何をしていたかじゃない。
これまで、この場所で何をしてきたと残っているかだ。
「記録自体は継続して残されていますね」
「ええ。活動した内容については、可能な範囲で記録しています」
桜小路先輩が答える。
「学校側で把握しているものとも、大きな食い違いはありません」
高科副会長の筆記具が動いた。
星野が身を乗り出す。
「じゃあ、そこは大丈夫なんですか?」
「記録があるという点については」
「あ……そういう感じなんですね」
星野が元の位置へ戻った。柚木も何も言わなかった。
たぶん、俺と同じところで引っかかったんだろう。記録がある。
だから問題がない。そう簡単にはつながらないらしい。
「現状、香道部が活動していないという判断にはなりません」
一条会長が言った。
「先ほど実際の活動も確認しましたし、記録も残っています。その点を否定するつもりはありません」
「ありがとうございます」
桜小路先輩が頭を下げる。
一条会長はそこで一度言葉を切った。
「ただし、今回確認しているのは、活動しているかどうかだけではありません」
高科副会長が別の資料へ手を移した。
「部活動には、部員数や活動実績だけでなく、学校側から割り当てられている予算や設備、施設の利用状況があります。特に専用の部室については、それらを分けて考えることができません」
声は淡々としている。
責める調子でもなければ、脅す調子でもない。
そのせいで、かえって内容だけが残った。
「香道部は現在、五人でこの作法室を利用しています。設備や活動の性質上、この環境が有効であることも今日確認できました」
高科副会長が、開いた資料へ視線を落とす。
「一方で、学校全体で見れば、利用できる施設や予算には限りがあります。専用の場所を継続して使うのであれば、その利用状況を他の団体と比較できる形で確認する必要があります」
「比較、ですか」
星野が呟いた。
「はい」
答えたのは一条会長だった。
「すべての部に同じ部屋を与える、という意味ではありません」
一条会長の視線が、室内を一度巡る。
「活動によって必要な環境は違います。香道にこの作法室の設備や環境が必要だということなら、それも判断材料になります」
「では、この部屋が香道に向いているということは――」
桜小路先輩が口を開く。
「考慮します」
一条会長はすぐに答えた。
「ですが、それだけで専用利用を継続できる、と先に結論を決めることもできません」
桜小路先輩は一瞬だけ黙った。
「……ええ。そうですわね」
否定しなかった。家のことも出さない。
この場所がどれだけ大切かを盾にも使わない。先輩は高科副会長の手元の資料を見ている。
「香道は、活動の性質上、人数や音だけでは外から分かりにくいところがあります。今日見ていただいたように、この部屋だからこそ行いやすいこともありますわ」
「はい」
「けれど、それを学校全体から見た時にどう説明するかは、別の話ということですね」
一条会長が頷いた。
「その認識で合っています」
短いやり取りだった。その言葉で、前に柚木と作法室を外から見た時のことを思い出した。
俺にとって、この部屋は必要だ。人の匂いが少なくて、強い香料もない。
呼吸が楽で、余計なものを拾わずに済む。香道部にとっても、畳や水屋があり、香材を扱えるこの環境には意味がある。
そこまでは間違っていない。
でも。
俺に必要な場所だから、学校もここを香道部に使わせ続けるべきだ。その間には、一本線が足りない。
たぶん、今ここで確認されているのは、その線だった。
「活動実績についても、記録されているものは確認できます」
高科副会長が続ける。
「ただ、現在ある実績だけを見て、今後も同じ形で専用利用を継続することが当然だとは判断できません。活動内容、利用状況、部員数、それに学校側の資源配分を合わせて見る必要があります」
柚木が腕を組んだ。
「つまり、ちゃんと活動してるのは認めてもらえる。でも、それとこの部屋をこのまま使えるかは別ってことですか?」
「そう考えてもらって構いません」
「うわ。分かりやすくなると普通に厳しいね」
柚木が苦笑する。
軽い言い方だったが、声はいつもより低かった。
「玲奈ちゃん……」
「いや、でもそうでしょ。使ってないって言われてるわけじゃないんだし。そこはちゃんと分けた方がいいじゃん」
星野へそう返して、柚木は机の上の資料を見る。澄は黙ったまま、そのやり取りを聞いていた。
俺の湯呑みは、いつの間にか邪魔にならない位置へ寄せられている。たぶん、高科副会長が資料を広げた時だ。
気づかなかった。
「一点、確認させてください」
桜小路先輩が言った。
一条会長が視線を向ける。
「仮に、現在の活動記録だけでは専用利用の説明として十分ではないと判断された場合、香道という活動自体の性質はどのように扱われますか」
「必要性を説明する材料として扱います」
一条会長の返答は速かった。
「活動の性質上、一般の教室では代替しにくい事情があるなら、それを無視することは公平ではありません」
そこまで言って、一条会長の呼吸がわずかに変わった。ほんの少し。
気にしていなければ流す程度の差だった。体温が上がった時に強くなる、皮膚からの微かな揮発。
そこへ薄い汗の成分が重なる。監査が始まった時にも緊張はあった。
けれど監査が始まった時より、身体の張りが強くなっているように感じる。
「ただし」
一条会長の声は変わらなかった。
姿勢も崩れていない。
「代替しにくいことと、現在の利用形態をそのまま維持することは別です。そこについては、他の条件と合わせて判断します」
「承知しました」
桜小路先輩が頷いた。
一条会長の身体には、桜小路先輩と直接言葉を交わす場面で変化が出る。ただ、この場ではずっと監査が続いている。話題も重く、時間も経っている。今の材料だけで理由まで選ぶことはできない。
嫌っているのか、苦手なのか、昔何かあったのか。考えようと思えば候補はいくらでも出る。
俺は高科副会長の手元を見る。活動記録、部員数、予算や設備、この作法室を専用で使っているという事実。そっちは、誰かの反応に関係なく紙の上に残っている。
一条会長と桜小路先輩の間に何かあるのかもしれない。それはそれで、まだ分からない。今はどちらか片方を答えにする理由もなかった。
「会長」
高科副会長が声を掛けた。
「次で最後です」
「ええ。お願いします」
高科副会長も一条会長の様子を一度見たが、すぐに資料へ戻る。監査はそのまま続いた。
最後の確認が終わる頃には、机の上に開かれていた資料もだいぶ減っていた。高科副会長が記入を終え、筆記具を置く。
「こちらで予定していた確認は以上です」
星野の背筋が伸びた。
一条会長が桜小路先輩を見る。
「今日確認した内容だけで、直ちにこの作法室の使用停止を決めることはありません」
星野が息を吐いた。
俺も肩の力が抜けた。
「ただ、現在のままで問題がないと確認できたわけでもありません」
その一言で、抜けかけた空気が止まった。
「香道部として、この場所をどのように利用しているのか。今後も専用で利用する必要性を、学校全体へ説明できるか。その点については、改めて整理していただく必要があります」
「分かりました」
桜小路先輩は迷わず答えた。
「こちらでも、必要なことを確認します」
「お願いします」
一条会長が頭を下げる。
高科副会長も資料をまとめ、立ち上がった。
「本日はありがとうございました」
「こちらこそ。確認していただき、ありがとうございます」
引き戸が開く。
二人が廊下へ出ていく。
「失礼します」
戸が閉じた。作法室が静かになる。
監査が始まる前と同じ部屋だ。畳も、水屋も、香炉もある。
さっきまでと何一つ変わっていないように見える。なのに、机の上には桜小路先輩が用意した資料が残っている。
「……とりあえず、明日からここ使えません、とかじゃないんですよね?」
星野が確認するように言った。
「ええ」
桜小路先輩はいつもの穏やかな声で答える。
「まだ何かが決まったわけではありませんわ」
星野の表情が緩む。
「ただ」
先輩は机の上へ視線を落とした。
「考えなければならないことがあるのは、よく分かりました」
柚木も資料を見る。
澄は何も言わず、湯呑みを整えていた。
「大丈夫よ」
桜小路先輩が俺たちを見る。
「まずは、できることを整理しましょう」
柔らかな笑みだった。監査は終わった。
でも、作法室の問題は終わっていない。むしろ今になって、何に答えなければいけないのかが、ようやく見え始めた気がした。




