第47話 若葉の旧校舎と、揺らぐ居場所 3
温められた香木の匂いは、近くにいなければ気づかないくらい細い。
それが作法室の中にゆっくり広がっている。
香炉を前にした星野が、さっきから難しい顔で香木を見ていた。
「……桜小路先輩。これ、さっきと違います?」
「ええ。少し違いますわね。急いで答えを出さなくて大丈夫よ」
「むむ……」
桜小路先輩の隣で、星野がもう一度香炉へ意識を戻す。柚木はその様子を横から眺め、澄は開いていたノートへ何かを書き込んでいた。
俺の前には湯呑みと、読みかけの文庫本。いつもの放課後だった。
桜小路先輩の手元には、普段なら見ない薄いファイルが置かれている。今日、ここに来る人間がいる。
そのためのものだろう。文庫本へ目を戻したところで、不意に引き戸が鳴った。
「失礼します」
声に、星野の手が止まる。
桜小路先輩が顔を上げた。
「どうぞ」
引き戸が開く。
一条生徒会長と、その後ろに高科副会長が立っていた。
高科副会長の手にはファイルと筆記具がある。
「お時間をいただきます」
一条会長が室内へ入り、俺たちを順に見る。
「先日お伝えした、文化部の部室利用状況の見直しに伴う現状確認です。今日はまず、こちらの部屋と現在の利用状況を確認させてください」
「ええ。お待ちしていました」
桜小路先輩が立ち上がる。来ること自体は知っていた。
それでも、二人が作法室へ入ってきた瞬間、それまで予定の中にあった監査が目の前の行為に変わった。何を見るのか。
それが今から分かる。
「活動を中断させてしまってすみません」
一条会長が香炉へ視線を落とした。
「いえ。ちょうど区切れるところでしたから」
先輩が答えると、星野は香炉の前から少し下がった。澄が自分のノートを脇へ寄せる。
俺も本に栞を挟んで、脇へ寄せた。柚木も座る位置をずらし、二人が室内を見られるように場所を空けた。
高科副会長が手元の資料を開く。
「では、最初に部員について確認します。現在の登録部員は五名。今日はこちらに全員いる、ということで合っていますか」
「ええ。間違いありません」
桜小路先輩が答える。高科副会長は五人を一度見て、それから何かを書き込んだ。
五人。俺、澄、柚木、星野、桜小路先輩。
今さら知らなかった事実じゃない。なのに、監査する側から数えられると、同じ事実が少し違って見えた。
「次に、室内の設備を確認させてください」
高科副会長が立ち上がる。
畳。水屋。棚に収められた香炉や香道具。香木をはじめとする香材。
この部屋に入ってから何度も見てきたものへ、順番に視線が向けられる。
「こちらの水屋も、普段の活動で使用していますか」
「はい。道具を扱う際に使っています」
桜小路先輩が答えた。
「香材の保管についても、この室内環境を前提に?」
「そうですね。香材は状態によって扱いやすさが変わりますから、温度や湿度には気を配っています」
「なるほど」
高科副会長の筆記具が動く。俺もつられて部屋の中を見た。
前に柚木と外から見た時には、引き戸一枚で全部見えなくなったものだ。中に入れば、畳も水屋も道具もある。
俺たちには見慣れたものばかりだった。一条会長が香炉へ目を向ける。
「先ほど行っていたのも、通常の活動ですか」
「はい」
答えたのは星野だった。
「香木の違いを教えていただいていました」
「そうですか」
一条会長は香炉を見て、それから桜小路先輩へ視線を戻した。
「この部屋の環境が、活動そのものに使われているという理解で合っていますか」
「ええ」
桜小路先輩は少しも急がずに答える。
「香りを扱いますから、強い香料や人の出入りが多い環境では難しいことがあります。ここは静かですし、道具を保管できる場所も、水屋もあります。今の香道部の活動には、実際にこの環境を使っています」
「分かりました」
一条会長が短く頷く。高科副会長はその間にも記録を続けていた。
――やっぱり、そこを見るのか。
さっきから確認されているものは、俺と柚木が外から作法室を見た時に引っかかった方向と重なっていた。視線を横へやると、柚木と目が合う。
向こうもほんの少し眉を上げた。それだけで十分だった。
「桜小路さん」
一条会長が先輩へ向き直る。
「一点、確認してもいいですか」
「もちろんです」
「外から見るだけでは、こちらでどのような活動が行われているかは把握しにくいように思います。その点については、どう考えていますか」
先輩はすぐには答えなかった。
一度、閉じた引き戸を見る。
「そうですね。その点は否定できません」
柔らかな声だった。
「香道は、外から見て動きの分かりやすい活動ではありませんから。音も大きくありませんし、人が頻繁に出入りするわけでもありません」
一条会長は黙って聞いている。
「ただ、見えにくいことと、活動していないことは同じではありません。今ご覧いただいたように、ここにある設備も環境も、実際の活動に使っています」
「はい。その点は確認できました」
一条会長はあっさり認めた。桜小路先輩も頷く。
見えにくい。でも、使っている。
どちらも事実だった。高科副会長が室内をもう一度見回してから、手元の資料へ目を戻した。
「現場については、ひとまず確認できました」
桜小路先輩が頷く。
「ありがとうございます」
「現在、この部屋で活動が行われていることも確認できています」
その言葉を聞いて、星野の肩から力が抜けた。柚木も息を吐く。
俺も同じだった。少なくとも、目の前にあるものは見てもらえた。
けれど、高科副会長はファイルを閉じなかった。
「ただ、利用状況の判断には、現場だけでは確認できないものがあります」
一条会長が高科副会長を見る。
高科副会長はファイルのページを一枚めくった。
「続いて、活動記録を確認させてください」
今、この部屋が使われている。そこまでは確認された。
それでも監査は終わらない。使っているという事実だけで、使い続けられるかまで決まる話ではないらしい。




