第46話 若葉の旧校舎と、揺らぐ居場所 2
引き戸を開けると、作法室の空気が背中側へ残った。
廊下へ出て、柚木が続く。俺が戸を閉めると、さっきまで聞こえていた紙をめくる音や道具の触れ合う音が一気に遠くなった。
「……で?」
「見る」
「それは聞いた」
柚木が半分呆れたように笑う。俺は一歩下がって、閉じた引き戸を見た。
古い木の戸。その前に掛かった『香道部』の木札。
以上。中に畳が敷かれていることも、水屋があることも、棚に香道具が収まっていることも、ここからでは分からない。桜小路先輩が帳面を開いているのも、星野が道具を手入れしているのも、澄がノートを開いているのも見えない。
俺がさっきまで問題集を開いていたこともだ。
「閉めたら、ほんと何も見えないね」
柚木が俺の横から戸を見る。
「ああ」
「まあ、引き戸なんだから当たり前っちゃ当たり前だけど」
「その当たり前を見に来たんだよ」
「なるほど?」
納得したような、していないような返事だった。俺たちにとっては、この戸の向こうに何があるかなんて考えるまでもない。
畳。香炉。茶。低い机。必要な道具。
放課後になれば誰かがいて、それぞれ勝手に何かをしている。香道の稽古をする日もあれば、今日みたいに別々のことをしている日もある。
でも、戸の外に立った瞬間、それは全部消えた。残るのは木札だけだ。
「少し歩くぞ」
「はーい」
作法室から離れる方向へ歩き出す。いつもとは逆だった。
普段の俺は、この廊下を奥へ進む。進むほど人の気配が薄くなって、声が減って、香料や汗や柔軟剤の重なりも遠ざかる。
それが楽だった。今日も条件自体は同じだ。
すれ違う人間はいない。遠くから聞こえる音も、本棟の廊下よりずっと少ない。
だからこそ、足を進めるほど妙な感じがした。俺にとって都合がいい条件ばかりだったから、今まで反対側から考えたことがなかった。
「柚木」
「ん?」
「香道部に入る前、この辺って来てたか」
「この辺?」
柚木が廊下を見回す。
「旧校舎の奥」
「あー……ほぼ来てないかな。用事ないし」
「作法室のことは?」
「名前くらいは見たことあったと思う。香道部あるんだ、くらい」
「何してるかは」
「全然」
即答だった。
柚木は続けた。
「いや、香道って言われたら、お香の何かやってるんだろうなーとは思うよ? でも、今みたいに何の道具使ってるとか、普段どんな感じで活動してるとかは知らなかった」
「来ないと分からないか」
「そりゃね。普通に教室行って、友達と喋って、帰ったり部活行ったりしてたら、わざわざここまで来る理由ないし」
その答えに、廊下の静けさが別の意味を持った。俺にとって、人が来ないのは利点だ。
人が少なければ、受け取る情報も減る。作法室が旧校舎の奥にあるから、俺は教室から離れて呼吸を戻せる。
でも、来る理由のない人間からすれば。ここまで人が来ないということは、ここで何が行われているのか目に入る機会もないということになる。
「神崎?」
「いや」
歩きながら、考えを組み直す。
「俺には、人が少ない方がいい」
「うん」
「でも、それと部活としてどう見えるかは別だな」
柚木が少しだけ歩調を緩めた。
「……たぶんね。あたしも今は中知ってるから、ここ必要じゃんって思うけど」
そこで一度言葉を切る。
「入る前のあたしに、『あの奥の部屋、普段どれくらい使われてると思う?』って聞かれても、分かんないと思う」
「だよな」
「部活名だけ見ても、何人いるとか、毎日使ってるとか、そういうのも見えないし」
そこまで言って、柚木が俺を見る。
「でもさ。見えにくいのと、使ってないのは違うよね」
「ああ」
それは分ける必要がある。俺たちは実際に使っている。
香木の繊細な香りを扱うのに、大勢が出入りする騒がしい場所は向かない。畳があって、水屋があって、香道具を置ける。温度や湿度も整えられている。
この部屋である理由はある。少なくとも、中にいる俺たちには説明できる。
問題は、その理由が戸を閉めた外側には何も見えないことだった。
「戻るか」
「もういいの?」
「見たかったものは見えた」
「相変わらず早いなあ」
「旧校舎全部調べても仕方ないだろ」
「それはそう」
作法室へ戻る方向へ折り返す。今度は、いつもの向きだ。
奥へ進むほど静かになる。さっきまでなら、それだけで身体の力が少し抜けていた。
今も楽なのは変わらない。ただ、さっきの柚木の「用事ないし」が頭に残っていた。
ここまで来る理由がなければ、作法室の戸を見ることもない。戸まで来ても、中で何をしているかは見えない。
その奥の一室を、俺たちは香道部の作法室として使っている。俺たちは、人数の多い部でもない。
どれも、それだけで悪い話じゃない。香道をするなら理由があるし、俺には実際に助かる条件でもある。
ただ、その理由を知らない人間が見れば、疑問を持ってもおかしくない。
「神崎」
「何だ」
「何となく分かった顔してる」
「何だそれ」
「考えまとまった時、ちょっとそういう顔するじゃん」
「知らない」
「本人だけ知らないやつね」
柚木が笑う。
こういうところは、こいつの方が俺よりよく見ている。
「じゃあ、何が分かったか当ててみろ」
「急に面倒な問題出すじゃん」
「分かるんだろ」
「そういう言い方する?」
言いながらも、柚木はすぐには答えなかった。
「中にいると必要な理由は分かる。でも、外からだとそれが見えない、とか?」
「だいたい合ってる」
「よし」
「何で嬉しそうなんだよ」
「当たったから」
単純だった。でも、柚木を連れてきたのは正しかったと思う。
一人で歩いていたら、人が少ないことや戸の向こうが見えないことまでは分かった。でも、ここへ来る理由自体がない、という感覚はたぶん出てこなかった。
俺にとっては、もう普通に来る場所になっていたからだ。作法室の前まで戻り、引き戸を開ける。
「ただいまー」
柚木が先に声を出した。
「おかえりなさい」
星野が棚の前から振り返る。
澄はさっきと同じ場所でノートを開いていて、桜小路先輩の前には帳面が載ったままだった。
部屋の中は、俺たちが出る前から大して変わっていない。
「いかがでした?」
桜小路先輩が尋ねた。
「外からだと、思ってたより何も分かりませんでした」
「何も?」
「ここで何をしてるのかとか、どれくらい使ってるのかとか。木札以外はほとんど」
先輩は閉じた引き戸へ一度目を向けた。
「そう」
「それが問題だと決まったわけじゃないです。ただ、知らない人から疑問が出てもおかしくないとは思います」
「うん。あたしもそんな感じ」
柚木が隣で頷く。
先輩は考えてから頷いた。
「分かったわ。ありがとう、二人とも」
それで終わった。星野はまた道具へ戻り、澄もノートへ目を落とす。柚木は閉じていたプリントを開き直した。
俺も置きっぱなしだった問題集の前へ戻る。湯呑みの茶は少し冷めていた。
口に含む。静かだった。
畳も、棚も、水屋も、香道具もある。必要な設備があって、実際に人が使っている。
俺にとって呼吸しやすい場所であることも、何一つ変わっていない。だから、この場所に価値がないとは思わない。
ただ、その価値を知っているのは、今ここにいる側だ。知らない側に「必要だから」と言うなら、その必要が何なのかまで見える形にしないと伝わらない。
俺が困ることと、学校がこの部屋を香道部に使わせ続ける理由は、同じじゃない。問題集へ目を戻す。
今度は、途中だった式を最後まで書けた。その後はいつも通りに時間が過ぎた。
片付けをして、道具を戻して、机の上を空ける。最後に引き戸を閉める。
廊下へ出ると、そこに残ったのは『香道部』の木札だった。中を知っている俺には、その向こうに何があるか分かる。
でも、知らない側から見える作法室は、たぶんここから始まる。




