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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
薫風の密室と、支えの行方

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第45話 若葉の旧校舎と、揺らぐ居場所 1

 放課後の作法室では、誰も同じことをしていなかった。桜小路先輩は低い机に帳面を広げ、星野は棚から出した道具を手入れしている。澄は湯を沸かしながら自分のノートを開いていて、柚木は畳の上に座って学校のプリントへ何か書き込んでいた。


 俺は壁際で問題集を開いている。


 戸棚の開く音。紙をめくる音。湯が小さく鳴る音。


 窓の向こうには、四月より濃くなった葉が見えた。教室にいた時より、人も刺激もずっと少ない。


 ここへ来てしばらくすれば、意識しなくても呼吸は元に戻る。


「慧くん」


 顔を上げると、澄が湯呑みを差し出していた。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 受け取って机の端へ置く。


 その横で、柚木がプリントから顔を上げた。


「あ、そうだ」


 声はいつもと変わらなかった。


「ちょっと気になる話、今日聞いたんだけど」

「何だよ」

「神崎にだけじゃなくて、みんなに」


 柚木が周囲を見回す。


 星野の手が止まり、桜小路先輩も帳面から視線を上げた。


 澄もノートから顔を上げる。


「玲奈ちゃん、どうしたの?」

「いや、まだそんな大ごとって決まったわけじゃないんだけどさ」


 そう前置きしてから、柚木は持っていたペンを畳へ置いた。


「文化部の部室、利用の見直しがあるかもって話」


 一瞬、部屋の音が減った。


「部室の利用、ですか?」


 星野が聞き返す。


「うん。今日、友達と話してた時に出たの。別に正式な通知を見たとか、生徒会の誰かから聞いたとかじゃないよ。だから、まだ噂に近いと思う」


 柚木はそこで一度言葉を切った。


 分かっているところと、分かっていないところを自分から分けている。


 桜小路先輩が尋ねた。


「香道部についてのお話なのかしら」

「ううん。少なくとも、香道部だけって話じゃなかったです。文化部の部室利用をまとめて見直すかもしれない、みたいな感じで」

「では、この作法室が何か問題だと指摘されたわけではないのね?」

「それも聞いてないです」

「時期や、何を基準に見直すのかは?」

「そこまでは全然」

「そう」


 桜小路先輩はそれだけ答えた。


 声を荒らげるでもなく、すぐに安心した顔をするでもない。


「教えてくださってありがとう、柚木さん」

「まだ曖昧な話ですみません」

「いいえ。知らないままでいるより、ずっといいわ」


 先輩の答えに、柚木の肩から力が抜けた。


「でも、それなら作法室も関係あるかもしれないってことですよね?」


 星野が棚の前からこちらを見る。


「可能性はあるんじゃないかな」


 柚木が答えた。


「逆に、絶対関係あるとも言えないけど」

「どちらも、まだ分からないということね」


 澄が言う。


「ああ」


 今は、それ以上考えても推測にしかならない。ただ、連休前から頭の端に残っている、桜小路先輩の「見直している」という話とは別だった。


 あれは補充や使い方の話だ。今聞いたのは学校の部室利用の話。


 同じような言葉が出てきただけで、間に線を引ける材料はない。


「正式に何か分かるまでは、普段通りでいいかしら」


 桜小路先輩が言った。


「今ここで考えても、分からない部分の方が多いもの」

「そうですね」


 柚木が頷く。


「また何か聞いたら、その時は言います」

「お願いするわ」


 それで会話はいったん終わった。星野は手元の道具へ戻り、柚木もプリントを引き寄せる。


 澄は湯を注ぎ終えて、自分のノートへ視線を落とした。桜小路先輩の帳面をめくる音も、すぐに戻ってきた。


 何も変わっていない。


 俺も問題集へ目を落とした。一問目の途中から式を続ける。


 数行進めて、止まった。視界の端に、畳が入る。


 その向こうに棚。低い机。香炉。閉じた引き戸。


 知っているものばかりだった。人の数も変わっていない。


 匂いも同じだ。茶葉と木と畳。柚木の甘い香水もあるし、それぞれの人間の匂いもある。


 それでも教室みたいに、どこから何が来たのか分からなくなるほど重ならない。ここなら息ができる。


 それは、さっきまでと何も変わっていなかった。変わったのは、この部屋を使えることについて、俺が考えたことがなかったと気づいたことだけだ。


 教室がきつければ、旧校舎へ来る。引き戸を開ければ、この部屋がある。


 桜小路先輩がいて、澄がいて、柚木や星野もいる。誰もいない日でも、ここは外よりずっと楽だった。


 いつからか、それを選択肢として数えるのが普通になっていた。明日もある。


 次に来ても使える。そういう前提で考えていた。


 それが、変わる可能性がある。鉛筆を置いた。


 なくなったら困る。そこだけは、考えるまでもなかった。


 教室で処理しきれなくなった時に逃げられる場所が一つ減る。それだけじゃない。


 向こうでは、星野が磨き終わった道具を光へかざしている。


「これで大丈夫ですか?」

「ええ。十分きれいよ」

「よかった」


 桜小路先輩に言われて、星野が笑った。


「玲奈ちゃん、ここ消しゴム落ちてるよ」

「あ、あたしの。ありがと」

「どういたしまして」


 澄が拾った消しゴムを渡す。柚木は受け取って、そのまま何事もなかったようにプリントへ戻った。


 五人がここで過ごすこと自体、もう珍しくない。桜小路先輩にとっても、澄にとっても、柚木や星野にとっても、この場所はたぶん大事だ。


 でも、俺たちにとって大事だからというだけで、この部屋が残るとは限らない。俺がここを必要としている。


 なくなったら困る。それは俺の側の話だ。


 学校がこの部屋を使わせ続けるかどうかは、たぶん別の見方で決まる。桜小路先輩が以前言っていたことを思い出す。


 俺には俺に分かることがある。先輩には先輩に分かることがある。


 一人の見えている範囲だけで、全部を決める必要はない。なら今回も同じだ。


 この部屋の中にいる人間だけで眺めていても、見えないものがある。


「神崎?」


 呼ばれて顔を上げた。


 柚木がこちらを見ていた。


「さっきから全然進んでなくない?」


 問題集を見る。


 確かに、同じ式の途中で止まっていた。


「別のこと考えてた」

「珍し。何?」

「柚木」

「うん?」

「お前、このあと少し付き合えるか」


 一拍。


「……その言い方だけ切り取ると、ちょっとびっくりするんだけど」

「何でだよ」

「神崎は気にしなくていい」

「なら言うな」


 柚木が笑う。


「で、どこ行くの?」


 俺は引き戸の方へ視線を向けた。


「外」

「外?」

「この部屋、一回外から見てみたい」


 今度は柚木が引き戸を見る。


「部屋の中にいるのに?」

「だからだよ」

「……ああ」


 柚木の表情が変わった。


「中にいる側だと、分かんないことあるかもってこと?」

「そう」


 俺が見れば、場所そのもののことは分かる。


 でも、それを他の生徒がどう受け取るかまでは分からない。


 柚木なら、少なくとも俺よりは学校の中の人間関係や空気を見ている。


「お前の感覚も聞きたい」

「なるほどね」


 柚木はプリントを閉じた。


「いいよ。付き合う」

「ありがとう」

「素直にお礼言われると、それはそれで調子狂うなあ」

「じゃあ返せ」

「返さないって」


 柚木が立ち上がる。


「神崎くん、何か確認するの?」


 桜小路先輩が聞いた。


「まだ何が問題になるのかも分からないので。とりあえず、この部屋が外からどう見えるのかだけ見てみます」


 先輩は一度作法室を見回し、それから俺へ視線を戻した。


「分かったわ。お願いしてもよろしい?」

「はい」

「慧くん、鞄は置いていく?」


 澄が聞く。


「すぐ戻るから置いとく」

「分かった」


 それだけで話は済んだ。俺は立ち上がり、引き戸の前まで歩く。


 振り返っても、作法室はさっきまでと何も変わっていなかった。畳も、棚も、低い机も。


 ここにいる四人も。俺にとって呼吸しやすい場所であることも。


 ただ、それがこれからも当然ここにあるとは限らない。なら、まず知らない側から見てみる。


「行くぞ、柚木」

「はいはい」


 俺は引き戸へ手をかけた。

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