第44話 薫風の街角と、残された注文 5
放課後の作法室には、連休中に持ち帰ったものが低い机の上へ並んでいた。
香材の包み。消耗品。茶菓子の箱。
あれだけ人の多い街を歩いて集めたものも、畳の上に置かれると妙に静かに見える。
「全部、確認できました。数も合ってます」
俺が控えていた一覧を差し出すと、桜小路先輩は受け取って一つずつ目を通した。
「ありがとう、神崎くん。真白さんたちも、本当に助かったわ」
「楽しかったので大丈夫です」
澄が答える。
「うん。普通に買い物としても楽しかったし」
「和菓子屋さん、また行きたいです」
柚木と星野も続いた。
「星野は半分そっち目的だっただろ」
「半分もないです。三割くらいです」
「そこは否定しろよ」
「だって気になったのは本当なので」
悪びれずに返される。
桜小路先輩が笑ってから、一覧を机へ置いた。
「では、神崎くんが選んでくださったものも見せていただける?」
「はい」
包みの一つを手前へ寄せる。
連休中、店頭で二つの候補から選んだものだ。
「こっちにした理由は、最初の刺激は少し強かったですけど、離れた時に残りにくかったからです。もう一つは最初は穏やかでも、あとから細い刺激が残ったので」
「前に比べた二つとは、少し違うのね」
「違います。前は二つ目の方が近いところにまとまってましたけど、今回はこっちの方が引くのが早かったです」
言ってから、自分でも少し分かりにくいと思った。
桜小路先輩もすぐには帳面へ書かず、こちらを見る。
「『引くのが早い』というのは、香りそのものが弱くなるのが早い、という意味かしら。それとも、神崎くんが離れた時に追ってこない、という意味?」
「後者です。近くならちゃんとあります。でも、距離を取るとそこで切れる感じです」
「なるほど。では、立ち方の強さと、離れた後の残り方は分けて考えた方がよさそうね」
「その方が答えやすいです」
先輩の指が帳面の上を動いた。
香道としてどう書いているのかは俺には分からない。
ただ、俺が言った「最初は強い」と「離れると残らない」が、別々の項目として扱われたらしい。
「もう一つ、比べてもよろしい?」
「大丈夫です」
先輩が棚から別の香包を二つ出した。
俺が買ってきたものを受け取って終わりではないらしい。
少し離れたところでは、澄が茶の準備をしている。柚木と星野は買ってきた品を棚へ戻すのを手伝いながら、どこへ置くのかで小声のやり取りをしていた。
「これ、こっちでしたっけ?」
「そっちは一段下じゃない?」
「柚木先輩、たぶん逆です」
「え、マジ?」
「玲奈ちゃん、前もそこ間違えてたよ」
「澄ちゃんまで覚えてるの?」
普段通りの声が後ろで重なる。その中で、桜小路先輩が一つ目を確かめる準備をした。
香りがほどける。乾いた木の匂いが先に立って、その後から少し丸い甘さが追ってきた。
強さだけなら、さっき話していたものより弱い。ただ、近くでまとまるという感じでもない。薄いまま、少し広い。
二つ目も確かめる。こっちは立ち上がりが遅かった。
温まってから輪郭が出る。近くでは一つ目よりはっきりしているのに、離れると意外なくらい早く薄くなった。
「どうかしら」
「二つ目の方が軽いです」
先輩の筆が止まる。
「どこが?」
短い問いに、さっきの会話を思い出した。
「……残り方です。最初の強さは、むしろ二つ目の方があります」
「では、近くでは二つ目の方が明確。でも、離れた後は短い?」
「はい。一つ目は弱いですけど、広く残ります」
「分かったわ」
今度はすぐに帳面へ書き込まれた。
普段なら、嫌なら離れる。きつければ避ける。それで済む。
けれど先輩に伝えるなら、俺の中だけで分かっていても意味がない。
「神崎くん。では、こちらは?」
今度は別の香材だった。
確かめて、少し待つ。
「立ちは遅めです。近いところにまとまります。残りは……短いです」
「先ほどの二つ目よりも?」
「少し長いです。でも、一つ目ほど広くは残らない」
「ええ。分かりました」
言い直しを求められない。先輩は帳面へ視線を落とし、何かを書き足した。
俺も次の香りが消えるのを待つ。比較が一段落すると、澄が湯呑みを置いた。
「お疲れさま」
「ん。ありがとう」
温かい湯気はあるが、鼻を押すほど強くない。一口飲んでから、机の端に置かれた買い出しの控えが目に入った。
香木店と和菓子店。別々の店で、今年は注文が少ないと言われた。
桜小路先輩は連休前に、補充の仕方と使い方を見直していると言っていた。店で聞いた話は、その言葉と矛盾しない。
「先輩」
「何かしら」
「そういえば、香木店と和菓子店の両方で、今年は注文が少ないって言われました」
桜小路先輩は目を見開いたあと、すぐに頷いた。
「そう。先方から見ても分かるくらいには変わっているのね」
「和菓子店の方は、今年に入ってから続いているそうです」
「ええ。減らしているものは今回だけではないから、そうなるでしょうね」
声はいつも通りだった。
俺が知っている事実とも食い違わない。
「分かりました」
どうして今年からなのか。聞こうと思えば聞ける。
でも、店で注文が減っていたことは、先輩の説明を疑う材料じゃない。むしろ、見直しているという話が実際の注文にも出ていると分かっただけだ。
その理由まで、店の記録から生えてくるわけじゃない。それ以上は、今の材料じゃ分からない。
「神崎、もう終わった?」
柚木が向こうから聞いてくる。
「比較はな」
「じゃあこれ手伝って。くるみちゃんが置き場所で迷子」
「迷子じゃないです。候補が二つあるだけです」
「それを迷ってるって言うんだよ」
「俺に聞いても分からないぞ」
「知ってる」
「じゃあ呼ぶな」
返すと、柚木が笑った。
「匂いの話ならあんなに通じるのに、こういうのは全然じゃん」
「棚の話と匂いの話を一緒にするな」
星野まで吹き出す。結局、置き場所は桜小路先輩が一言で決めた。
澄は空いた箱をまとめ、俺は使い終えたものを言われた位置へ戻す。しばらくすれば、さっきまで机を占領していた包みもほとんど片づいた。
低い机の上には、桜小路先輩の帳面と、飲みかけの湯呑みが残る。
「神崎くん」
「はい」
先輩が最後に一つだけ香包を示した。
「これは、次に使う時も同じ見方で伺って大丈夫そうかしら」
「立ち方と、広がり方と、残り方を分けるなら。その方が俺も答えやすいです」
「では、そうしましょう」
先輩は自然に頷いて、帳面を閉じた。次も。
たぶん、その時は今日ほど説明しなくていい。俺にしか分からなかった差が、先輩との間では少しだけ短い言葉で済むようになった。
「先輩、これで全部ですか?」
星野が棚の前から振り返る。
「ええ。今日はここまでにしましょう」
「はーい」
「やっと終わったー」
「玲奈ちゃん、途中からほとんど喋ってただけじゃない?」
「ちゃんと片づけたって」
澄の声に柚木が反論して、星野が横から笑う。戸棚が閉まる音がした。
五人分の声が、古い作法室の中で適当に重なる。俺は自分の鞄を持ち上げた。
その日の活動は、それで終わった。




