第39話 新緑の作法室と、選ばれた香り 3
作法室を出たころには、窓の外の光が少し傾いていた。帰り道はいつも通りだった。
澄と並んで校門を出て、駅まで歩く。人の流れが増える場所では少し端へ寄る。それだけで、放課後の教室よりはずっと楽だった。
明日から連休。
その事実は駅前の空気にも出ていた。普段より浮ついた声。どこへ行くか、何をするか。そんな話が何度も横を通り過ぎていく。
「明日、何時に出る?」
澄が聞いた。
「まだ決めてない」
「混む前の方が楽だと思うけど」
「俺もそう思う」
中心街へ行くなら、昼に近づくほど人は増える。今日の教室ですら処理するものが多かった。連休中の街なら、もっと増える。
だからといって断るつもりはなかった。桜小路先輩から頼まれたのは、俺にしか分からない部分だった。
なら、行ける条件を作ればいい。
「帰ったら一回、明日の準備見ようか」
澄が言う。
「ん。頼む」
それで話は終わった。マンションに着くと、それぞれ自分の家へ戻った。
俺は制服を脱いで、手を洗う。水を一杯飲んでから、明日使う鞄を床へ置いた。
数分後、インターホンが鳴る。
「はい」
『私』
分かっている。
玄関を開けると、着替えた澄が立っていた。
「お邪魔します」
「どうぞ」
澄は靴を揃えて上がると、部屋の中を見回した。
「準備、どこまでした?」
「鞄を出した」
「それは準備って言うのかな」
「始めてはいるだろ」
「始めた判定はしてあげる」
微妙に甘い。
俺は床の鞄を拾って、机の横へ持っていく。
「まず水分かな。明日、今日より少し気温上がるみたい」
「水筒は持っていく」
「うん。途中で買ってもいいけど、混んでたら面倒だよね」
「それは嫌だな」
人の多い店へ入る理由は少ない方がいい。水筒を出して、鞄の横へ置く。
次に、明日着るものを考える。暑くなれば汗が増える。自分の分だけならまだいいが、街では他人の分まで増える。
厚着をする意味はない。かといって、店の冷房が強い可能性まで無視すると別の面倒が増える。
「羽織れるもの、一枚持つ」
「うん。その方がいいと思う」
俺が薄手のものを一枚出すと、それを見て頷く。
「それなら邪魔にもならなそう」
「じゃあこれで」
続けて、普段から使っているミントタブレットの残りを確認する。
容器を振ると、軽い音がした。
「足りる?」
「明日一日なら」
「本当に?」
もう一度振る。
今日みたいな日なら問題ない。
ただ、明日は今日より人が多い。
「……予備だけ入れとく」
「うん」
予備を鞄の内ポケットへ入れた。
あとは財布とスマホ。桜小路先輩から見せてもらった買い出しの項目は、必要な部分だけ控えてある。
全部揃えて並べると、ようやく外出らしい形になった。
「こんなもんか」
「あと、無理そうだった時は?」
澄が聞いた。
「帰る」
「その前は?」
「人の少ない方に抜ける。座れる場所があれば休む。それでも駄目なら帰る」
「うん」
「何だよ」
「ちゃんと考えてたから」
「考えるだろ」
俺の身体だ。
桜小路先輩に頼まれたからといって、限界まで我慢するつもりはない。
逆に、街が混むというだけで最初から諦める必要もなかった。
「澄」
「ん?」
「明日、俺が無理そうなら言うから」
「……うん」
「その前に勝手に帰る方向へ持っていくなよ」
一拍、澄が黙った。
「持っていかないよ」
「ならいい」
「でも、しんどくなったらちゃんと言ってね」
「ああ」
それなら話が早い。澄は俺が何を苦手にして、どうすると負荷が下がるかを知っている。
だから、こういう時は頼った方が楽だった。準備が終わると、澄は並べたものを一度見てから立ち上がった。
「じゃあ、私は戻るね」
「もういいのか」
「うん。私もやることあるから」
「宿題?」
「それもあるけど、今日は別の方」
玄関へ向かいかけた澄が、思い出したように止まる。
「練香の様子、見ておきたいの」
「練香?」
「文化祭で使えたらいいなと思って、少し前から準備してる」
文化祭。
頭の中で今の日付と距離を測る。
「秋だろ」
「秋だよ」
「今五月なんだけど」
「知ってるよ」
澄は笑った。
「練香って、作ってすぐ終わりじゃないから。今から少しずつ見ておきたいの」
そのあたりは、俺より澄の方が詳しい。
詳しいが、それでもかなり先の話だ。
「随分早いな」
「文化祭、人多くなるでしょ」
「まあ、なるだろうな」
「作法室も普段より人が出入りするかもしれないし。慧くんが長くいても、負担になりにくいものにできたらいいなって」
ああ。そういうことか。
文化祭の人混みが俺にきついことくらい、澄なら今の時点で分かる。明日の街へ出る準備を考えるのと同じだ。
時期が先なだけで、やっていること自体は変わらない。
「まだ何も決まってないんだろ?」
「うん。だから今から試すの」
「なるほど」
澄は昔からこういうところがある。
俺が困ってから動くより、困りそうなものを先に減らしておく。
俺自身より先に気づいていることすら珍しくない。
「じゃあ、戻るね」
「ああ」
「明日、起きたら連絡する」
「分かった」
玄関の扉が閉まる。部屋に戻ると、床には明日のために出したものが残っていた。
水筒。羽織るもの。ミントの予備。
明日の予定に必要なものばかりだ。その中で一つだけ、さっき聞いた話の時間だけが妙に遠かった。
秋の文化祭。その頃の俺が困らないように、澄はもう動き始めている。
気が早い。けれど、澄ならやる。
俺の体質を一番よく分かっているのは、昔からあいつだった。俺は明日の鞄を閉じた。




