第38話 新緑の作法室と、選ばれた香り 2
「GWの前に、ひとつ確かめておきたいものがあるの」
先輩は閉じていた帳面を開き直し、その横に置いてあった小さな香包を二つ寄せた。
少し離れたところでは、澄と柚木がそれぞれ問題集を広げたまま何か書き込んでいる。棚の方では星野が残っていた道具を片づけていた。
「連休中に、香材や消耗品をいくつか補充する予定なのだけれど。この二つで、少し迷っていて」
「香道のことなら、俺より先輩の方が分かるでしょう」
思ったままを返す。
星野に棚の場所を聞かれて即答できなかったばかりだ。香道部にいる時間は増えたが、俺が知っていることなんてまだ限られている。
桜小路先輩は気を悪くした様子もなく、むしろ頷いた。
「ええ。だから、香道としてどちらが正しいかを神崎くんに決めていただきたいわけではないの」
「じゃあ、何を聞きたいんですか」
「神崎くんには、神崎くんがどう感じるかを教えていただきたいのよ」
そこで一度、言葉が止まった。先輩が何を言っているのかは分かる。
俺の鼻は、香道の知識まで勝手に増やしてくれるわけじゃない。
ただ、同じ香りでも、どこから立つか。どのくらい広がるか。どれだけ残るか。そういう差なら、嫌でも拾う。
「わたくしには、わたくしの判断材料があります。でも、神崎くんがこの部屋で長く過ごした時に、どちらを負担に感じるかまでは分からないでしょう?」
「……それを、選ぶ材料にするんですか」
「そのつもりよ」
俺の感じ方そのものを、一つの情報として使うつもりらしい。
「それなら、分かる範囲で」
「ありがとう」
桜小路先輩は頷くと、いつもの落ち着いた手つきで準備を始めた。先輩が整えた香炉から、一つ目の香りが静かにほどける。
最初は細い。乾いた木の甘さに、少し鋭いものが混じっている。量そのものは多くないのに立ち上がりが早く、鼻の奥の高いところへ引っかかった。
香炉から離れても、その輪郭がしばらく残る。
「もう一つ、お願いしても?」
「はい」
二つ目は、最初の広がり方が違った。立ち上がりは少し遅い。温まるにつれて丸い木の香りが近くに集まって、そのまま薄くほどけていく。
強くないわけじゃない。ただ、さっきのものみたいに距離を取っても輪郭が残り続ける感じは少なかった。
背後で紙をめくる音がする。棚の戸が小さく鳴って、それきりまた静かになった。
両方を聞き終えて、少し間を置く。
「俺なら、二つ目の方が楽です」
「理由も聞いてよろしい?」
「一つ目は、最初に来る刺激が強いです。離しても細く残る。二つ目は近いところではちゃんと分かりますけど、広がり方がまとまってるというか……長くここにいるなら、こっちの方が処理しやすい」
香道の言葉として合っているかは知らない。
だから、自分に分かる範囲だけを言った。
桜小路先輩は途中で口を挟まず、最後まで聞いてから帳面へ視線を落とした。
「そう」
紙の上を指が滑る。
先輩が最初につけていた印は一つ目の候補にあった。
その横に短く何かを書き足したあと、二つ目の方へ新しい印がつく。
「では、今回は二つ目を優先しましょう」
「変えるんですか」
「ええ。用途だけなら、どちらでも問題はありませんもの。なら、実際にこの部屋で過ごす人が受ける負担も、判断材料にしていいでしょう?」
あっさりした答えだった。さっき俺が言ったことが、そのまま一つの選択を変えている。
不思議な感じがした。この鼻は、普段なら拾わなくていいものまで拾う。
教室では邪魔になることの方が多いし、誰かの強がりや余計な違和感に気づく原因にもなる。でも今は、俺がどう感じたかを答えただけだ。
それで一つ、役に立ったらしい。
「それと、神崎くん」
「はい」
「もう一つ、お願いしてもよろしいかしら」
桜小路先輩が帳面の別のページを開く。
「連休中の買い出しで、香りや刺激をその場で確かめていただきたいものがいくつかあるの。もし都合が悪くなければ、力を貸してくださらない?」
「俺が行く必要がありますか」
「ええ。持ち帰ってから分かっても遅いものもあるでしょう? 神崎くんには、その場でどう感じるかを教えていただければ十分よ」
先輩はそこで一度、帳面から俺へ目を戻した。
「神崎くんにしか分からないことは、神崎くんに聞きたいの」
断る理由を考える。連休中の街は、たぶん楽ではない。
今日の教室ですらあれだった。気温が上がれば、人の汗も香料も今より強くなる。
それでも、無理なら無理と言えばいい。桜小路先輩には恩がある。何より、今の比較くらいのことなら、俺にもできると分かった。
「分かりました。俺に分かる範囲でよければ」
「十分よ。助かるわ」
先輩は笑って、買い出し用らしい一覧をこちらへ向けた。
「では、神崎くんに見ていただきたいものだけ、先に確認しておきましょう」
「はい」
紙には香材や消耗品、茶菓子までいくつかの項目が並んでいた。全部を見る必要はないらしい。
先輩が示す箇所だけ追っていく。その途中で、横の数字が目に入った。
「先輩」
「何かしら」
「今年、少なくないですか」
一覧の端には、前年の同じ時期の記録が残っていた。一つだけじゃない。
香材も、茶菓子も、いくつかの項目で今年の予定数の方が少ない。桜小路先輩は俺の指したところを見て、すぐに頷いた。
「ええ。今年は補充の仕方と、使い方を少し見直しているの」
「記入ミスじゃないんですか」
「違うわ。量を減らしているものはいくつかあるわね」
声も手元も変わらない。
質問を避ける様子もなかった。
「何か理由があるんですか」
「今までと同じ使い方が、本当に必要かを見直しているところなの。連休中に確認してから決めたいものもありますし、今の段階で一度に揃えなくてもいいものもあるでしょう?」
「なるほど」
説明としては分かる。少なくとも、去年より減っているのは間違いでも偶然でもない。
ただ、どうして今年になって見直しているのかまでは分からない。
在庫かもしれない。活動予定かもしれない。他にも理由はいくらでもある。
今は材料が足りない。それ以上考えても、たぶん答えは出ない。
俺は一覧へ視線を戻した。桜小路先輩が、俺に見てほしい項目へ小さく印をつけていく。
本を読んで過ごすだけだったはずの放課後に、連休中の用事が一つ増えた。誰かの嘘を暴くためじゃない。
俺がどう感じるかを、答えるための用事だった。




