↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
薫風の密室と、支えの行方

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
37/94

第37話 新緑の作法室と、選ばれた香り 1

 六限の終わりが近づくころ、二年三組の空気は朝よりずっと濃くなっていた。誰か一人がどうこうという話じゃない。


 前の席からは制汗剤。斜め後ろでは柔軟剤の甘さに汗が混じり、窓際から入ってくる外気にも、昼を過ぎた熱と湿気、それに校舎と土の匂いが乗っている。


 柚木が教卓の前を通れば、もう馴染んだ甘い香水も分かる。ただ、今はそれだけを切り分けても意味がなかった。


 朝につけたもの。昼に食べたもの。午後になって増えた汗。廊下から持ち込まれる別の教室の空気。


 どれも普通だ。普通のものが教室一つ分重なると、俺には普通じゃない量になるだけだった。


「――じゃあ、ここまで。続きは連休明けな」


 教師の声で顔を上げる。ノートの最後の一行が、途中から妙に細くなっていた。


 内容を聞き逃したわけじゃない。けれど、黒板より先に拾うものが多すぎると、集中にも少しずつ余計な処理が混ざる。


 息を吐いて、シャープペンを置いた。


「神崎、これ後ろ回して」

「ああ」


 前から来たプリントを受け取り、後ろへ送る。その程度の動きでも、席を立ったやつの残した匂いが近づいては離れていく。


 早く終わってくれ。


 別に誰かに腹が立っているわけじゃない。今日は単純に、鼻が忙しい。


 終礼が終わると、明日からの連休の話で教室の音量が一段上がった。


「玲奈、駅前寄ってく?」

「いいよ。ちょっとだけなら」


 柚木が友人のところへ向かう。澄も別の女子に声をかけられて、机の横で何か話していた。


 俺は鞄へ教科書を入れる。このまま帰ってもいい。


 けれど、今から駅までの人混みにそのまま突っ込むより、学校の中で一度処理量を落とした方が楽だ。行ける場所は、もう知っている。


 鞄を肩に掛けて、教室を出た。本棟の廊下には、まだ放課後の人の流れが残っていた。


 階段を下りる集団を一つやり過ごし、なるべく端を歩く。


 部活へ向かうやつ。昇降口へ急ぐやつ。廊下で立ち話を始めるやつ。


 そこを抜けて旧校舎側へ曲がると、数十歩で処理するものが減った。古い木材も、開いた窓から入る外気もある。


 それでも、人の流れが少ないだけで随分違う。窓の向こうでは、四月より色を濃くした葉が風に揺れていた。


 作法室には、たぶん誰かいる。今日は普通の活動日だ。


 それを理由に足を止める必要はなかった。廊下の奥まで進むころには、中から小さく声が聞こえてきた。


 ひとつじゃない。そのまま引き戸の前まで行き、手をかける。


「失礼します」


 戸を開けると、最初に返ってきたのは澄の声だった。


「慧くん、お疲れさま」

「ん。お疲れ」


 澄は畳の端でノートを開いていた。顔だけこちらへ向けると、すぐ手元へ視線を戻す。


「神崎、おつかれー」


 少し離れたところでは、柚木が学校のプリントに何か書き込んでいた。


「駅前行くんじゃなかったのか」

「やめた。明日でもいいし」

「そうか」

「反応うっす」

「今それ以上いるか?」

「いらないけどさ」


 柚木は笑って、またプリントへ戻る。棚の近くでは星野が使ったらしい道具を一つずつ戻していて、桜小路先輩は低い机の上に帳面を広げていた。


 誰も俺が来たから手を止めない。俺も止めさせる用事はない。


 壁際の空いている場所へ鞄を置いて座った。水筒を出して一口飲む。


 畳や木、茶葉、それに四人分の人の匂いがある。柚木の香水だって消えたわけじゃない。


 それでも、ここなら何がどこから来るのか大体分かる。俺は鞄から読みかけの本を出した。


「澄ちゃん、これどこまでやった?」

「そこなら三番まで」

「え、早くない?」

「昨日ちょっとやったから」

「ずる」

「何が?」

「先に進んでるのが」

「玲奈ちゃんもやれば進むよ」

「正論が痛い」


 二人のやり取りを聞きながら、続きのページを開く。


「神崎先輩」


 棚の方から声がした。


「ん?」

「これ、上で合ってましたっけ」


 星野が小さな包みを持ったまま、棚の上段を指す。


 俺は見ても分からない。


「俺に聞くな」

「ですよね」


 即答すると、星野はあっさり引いた。


「桜小路先輩、こっちで合ってますか?」

「ええ。右側の奥で大丈夫よ」

「ありがとうございます」


 それで話は終わる。鉛筆の走る音がして、棚が小さく鳴って、また静かになる。


 数ページ読んだところで、水筒へ手を伸ばした。さっきまで浅くなっていた呼吸は、いつの間にか普通に戻っていた。


 また少し読み進める。顔を上げると、桜小路先輩はさっきから帳面と棚を行き来していた。


 紙へ数字を書き込み、棚の中を確かめ、時々小さな箱を手元へ寄せる。星野が戻した道具とは別に、何かの数を見ているらしい。


 明日から連休だ。部長なら、その前に確認するものくらいあるんだろう。


「桜小路先輩、それこっちに置きます?」


 星野が空いた箱を持ち上げる。


「ええ、お願い。そちらはもう大丈夫よ」

「はーい」


 桜小路先輩は帳面へ一つ印をつけると、ページをめくった。俺も手元へ視線を戻した。


 またページをめくる。途中で柚木が伸びをして、澄に「休憩しよ」と言い出す。


「玲奈ちゃん、まだ二問目じゃなかった?」

「二問やったら休憩でしょ」

「その決まり初めて聞いた」

「今作った」

「じゃあ却下かな」

「澄ちゃん厳しくない?」

「普通だと思うよ」


 声だけ聞いて、口元が緩む。


 次のページへ目を落としたところで、帳面を閉じる音がした。


「神崎くん」


 桜小路先輩の声に顔を上げる。


「はい」


 先輩は閉じた帳面へ片手を置いたまま、こちらを見ていた。


「少し、よろしいかしら」

「大丈夫です」


 何か部活の用事らしい。


 俺は本に付箋を挟み、桜小路先輩の方へ身体を向けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。