第37話 新緑の作法室と、選ばれた香り 1
六限の終わりが近づくころ、二年三組の空気は朝よりずっと濃くなっていた。誰か一人がどうこうという話じゃない。
前の席からは制汗剤。斜め後ろでは柔軟剤の甘さに汗が混じり、窓際から入ってくる外気にも、昼を過ぎた熱と湿気、それに校舎と土の匂いが乗っている。
柚木が教卓の前を通れば、もう馴染んだ甘い香水も分かる。ただ、今はそれだけを切り分けても意味がなかった。
朝につけたもの。昼に食べたもの。午後になって増えた汗。廊下から持ち込まれる別の教室の空気。
どれも普通だ。普通のものが教室一つ分重なると、俺には普通じゃない量になるだけだった。
「――じゃあ、ここまで。続きは連休明けな」
教師の声で顔を上げる。ノートの最後の一行が、途中から妙に細くなっていた。
内容を聞き逃したわけじゃない。けれど、黒板より先に拾うものが多すぎると、集中にも少しずつ余計な処理が混ざる。
息を吐いて、シャープペンを置いた。
「神崎、これ後ろ回して」
「ああ」
前から来たプリントを受け取り、後ろへ送る。その程度の動きでも、席を立ったやつの残した匂いが近づいては離れていく。
早く終わってくれ。
別に誰かに腹が立っているわけじゃない。今日は単純に、鼻が忙しい。
終礼が終わると、明日からの連休の話で教室の音量が一段上がった。
「玲奈、駅前寄ってく?」
「いいよ。ちょっとだけなら」
柚木が友人のところへ向かう。澄も別の女子に声をかけられて、机の横で何か話していた。
俺は鞄へ教科書を入れる。このまま帰ってもいい。
けれど、今から駅までの人混みにそのまま突っ込むより、学校の中で一度処理量を落とした方が楽だ。行ける場所は、もう知っている。
鞄を肩に掛けて、教室を出た。本棟の廊下には、まだ放課後の人の流れが残っていた。
階段を下りる集団を一つやり過ごし、なるべく端を歩く。
部活へ向かうやつ。昇降口へ急ぐやつ。廊下で立ち話を始めるやつ。
そこを抜けて旧校舎側へ曲がると、数十歩で処理するものが減った。古い木材も、開いた窓から入る外気もある。
それでも、人の流れが少ないだけで随分違う。窓の向こうでは、四月より色を濃くした葉が風に揺れていた。
作法室には、たぶん誰かいる。今日は普通の活動日だ。
それを理由に足を止める必要はなかった。廊下の奥まで進むころには、中から小さく声が聞こえてきた。
ひとつじゃない。そのまま引き戸の前まで行き、手をかける。
「失礼します」
戸を開けると、最初に返ってきたのは澄の声だった。
「慧くん、お疲れさま」
「ん。お疲れ」
澄は畳の端でノートを開いていた。顔だけこちらへ向けると、すぐ手元へ視線を戻す。
「神崎、おつかれー」
少し離れたところでは、柚木が学校のプリントに何か書き込んでいた。
「駅前行くんじゃなかったのか」
「やめた。明日でもいいし」
「そうか」
「反応うっす」
「今それ以上いるか?」
「いらないけどさ」
柚木は笑って、またプリントへ戻る。棚の近くでは星野が使ったらしい道具を一つずつ戻していて、桜小路先輩は低い机の上に帳面を広げていた。
誰も俺が来たから手を止めない。俺も止めさせる用事はない。
壁際の空いている場所へ鞄を置いて座った。水筒を出して一口飲む。
畳や木、茶葉、それに四人分の人の匂いがある。柚木の香水だって消えたわけじゃない。
それでも、ここなら何がどこから来るのか大体分かる。俺は鞄から読みかけの本を出した。
「澄ちゃん、これどこまでやった?」
「そこなら三番まで」
「え、早くない?」
「昨日ちょっとやったから」
「ずる」
「何が?」
「先に進んでるのが」
「玲奈ちゃんもやれば進むよ」
「正論が痛い」
二人のやり取りを聞きながら、続きのページを開く。
「神崎先輩」
棚の方から声がした。
「ん?」
「これ、上で合ってましたっけ」
星野が小さな包みを持ったまま、棚の上段を指す。
俺は見ても分からない。
「俺に聞くな」
「ですよね」
即答すると、星野はあっさり引いた。
「桜小路先輩、こっちで合ってますか?」
「ええ。右側の奥で大丈夫よ」
「ありがとうございます」
それで話は終わる。鉛筆の走る音がして、棚が小さく鳴って、また静かになる。
数ページ読んだところで、水筒へ手を伸ばした。さっきまで浅くなっていた呼吸は、いつの間にか普通に戻っていた。
また少し読み進める。顔を上げると、桜小路先輩はさっきから帳面と棚を行き来していた。
紙へ数字を書き込み、棚の中を確かめ、時々小さな箱を手元へ寄せる。星野が戻した道具とは別に、何かの数を見ているらしい。
明日から連休だ。部長なら、その前に確認するものくらいあるんだろう。
「桜小路先輩、それこっちに置きます?」
星野が空いた箱を持ち上げる。
「ええ、お願い。そちらはもう大丈夫よ」
「はーい」
桜小路先輩は帳面へ一つ印をつけると、ページをめくった。俺も手元へ視線を戻した。
またページをめくる。途中で柚木が伸びをして、澄に「休憩しよ」と言い出す。
「玲奈ちゃん、まだ二問目じゃなかった?」
「二問やったら休憩でしょ」
「その決まり初めて聞いた」
「今作った」
「じゃあ却下かな」
「澄ちゃん厳しくない?」
「普通だと思うよ」
声だけ聞いて、口元が緩む。
次のページへ目を落としたところで、帳面を閉じる音がした。
「神崎くん」
桜小路先輩の声に顔を上げる。
「はい」
先輩は閉じた帳面へ片手を置いたまま、こちらを見ていた。
「少し、よろしいかしら」
「大丈夫です」
何か部活の用事らしい。
俺は本に付箋を挟み、桜小路先輩の方へ身体を向けた。




