第36話 暮春の夕暮れと、選んだ居場所 4
五月に入った最初の朝も、二年三組は特に変わらなかった。窓際では誰かが連休の予定を話していて、教卓の近くでは提出物を忘れたやつが騒いでいる。
「だから、それは明日でいいんだって」
「ほんとに?」
「昨日先生言ってたじゃん」
柚木は水瀬と小坂の間で笑っていた。その向こうでは、澄が前の席の女子にノートを返している。
「ありがと、真白さん」
「ううん。こっちこそ昨日助かったよ」
「じゃ、次の移動一緒に行く?」
「うん、行こっか」
俺はそこまで聞いて、机の上の教科書へ視線を戻した。朝は朝で、それぞれ勝手に回っている。
昼休みも大差はない。教室の中には弁当とパンと飲み物の匂いが広がって、午後になれば人の体温も上がる。
まだ暑いというほどじゃない。それでも一日分の香料や汗が重なれば、鼻の奥にはそれなりに残った。
放課後、俺は人の流れが落ち着くのを待ってから旧校舎へ向かった。本棟を離れるにつれて、廊下を行き交う人数が減る。
旧校舎の奥まで来れば、足音もかなり遠くなった。
「失礼します」
作法室の戸を開ける。
「いらっしゃい、神崎くん」
桜小路先輩は棚の前で何かを確認していた。畳の上には紙と小さな箱がいくつか並んでいる。
「何か手伝いますか」
「大丈夫よ。数を見ているだけだから。神崎くんはいつも通りでいてちょうだい」
「分かりました」
言われた通り、壁際のいつもの位置に座る。鞄から数学の問題集を出して、昨日途中で止めたページを開いた。
しばらくして戸が開く。
「失礼しまーす」
星野だった。
「こんにちは。神崎先輩も早いですね」
「お前もな」
「一年生は移動が素早いんです」
「学年関係あるのか、それ」
「気分です」
星野は何でもない顔で答えて、桜小路先輩の方へ向かった。
「これ、昨日の続きですか?」
「ええ。星野さん、そちらの箱だけ数を見てもらえるかしら」
「分かりました」
それから澄が来て、少し遅れて柚木も入ってきた。誰かが全員へ連絡したわけでもない。俺も待っていたわけじゃない。
気づけば五人いた。作法室の中に人の気配は増えた。星野が箱を動かす音。桜小路先輩の声。澄が水屋を使う気配。
柚木が入ってくれば、いつもの甘い香水も分かる。消えたわけじゃない。ただ、教室みたいに何十人分もの匂いが狭い場所で重なることはない。
戸の向こうを通る人間も少なく、開けた窓からはゆっくり空気が動いている。人同士の距離もある。俺は問題集へ視線を戻した。
三問目まで解いたところで、離れた場所から柚木の声が聞こえた。
「澄ちゃん、これってこっちで合ってる?」
「うん。その箱で大丈夫だよ」
「じゃあ、この紐も一緒?」
「それは隣。混ざると分かりにくいから」
「あ、ほんとだ。札ついてた」
「最初ちょっと見つけにくいよね」
「こういうの、まだ全然覚えてない」
「すぐ覚えなくても大丈夫だよ。使う時に分かればいいし」
「それ助かる」
柚木は手元の箱へ視線を落とした。
「これ終わったら、戻すのも同じとこ?」
「うん。分からなかったら呼んで」
「了解。ありがと、澄ちゃん」
俺が四問目に取りかかった頃、澄が湯呑みを置いた。
「慧くん、ここでいい?」
「ああ。ありがと」
温度は高すぎない。一口飲んで、また問題集へ戻る。
星野と桜小路先輩はまだ箱の数を確認し、柚木はさっきの作業を続けていた。澄は水屋に戻る。
五人がいるからといって、全員で同じ話をする必要もないらしい。声がする時もあれば、しばらく誰も喋らない時もある。俺にとっては、その方が楽だった。
問題集のページが一枚進む頃には、学校にいる間ずっと残っていた軽い疲れも、かなり引いていた。
やがて桜小路先輩が紙を揃えた。
「今日はこのくらいにしましょうか」
「はーい」
星野がすぐ返事をする。
「これ、戻しておきますね」
「お願いするわ」
片付けが始まり、俺も問題集を閉じた。
しばらくして、星野と柚木がそれぞれ作法室を出ていく。桜小路先輩も最後の確認があるらしく、その場に残った。俺と澄は鞄を持って旧校舎を出た。
帰り道は、行きより人が多い。駅へ近づけば制服姿だけじゃなく、買い物帰りや仕事帰りらしい人間も混ざる。排気ガス、飲食店、整髪料、香水。一日学校にいた後だと、どれも朝より鬱陶しい。
「慧くん」
「ん」
「今日、ちょっと静かだね」
「そうか?」
「うん。返事、いつもより短いかも」
「いつもこんなもんだろ」
「今日はもうちょっと短いよ」
「細かいな」
「長いからね」
何が、とは聞かなかった。澄もそれ以上は言わない。
人の多い区間では会話が減って、空いた道へ出るとまたどうでもいい話が戻ってくる。
「今日は人多かったね」
「多かった」
「朝も廊下、結構混んでたし」
「一日ずっとだな」
「帰りもまだ多いね」
「ああ」
澄が前を歩く人を避けて横へ寄り、俺も同じように進路をずらした。
「やっぱり、今日は短いね」
「数えてるのか」
「数えてないよ」
「怪しいな」
「そこ疑う?」
澄が笑った。
マンションに着くと、同じ階まで上がって、それぞれの玄関の前で止まる。
「じゃあ、またあとで」
「ああ」
澄が隣の家へ入る。俺も自分の家の鍵を開けた。
「ただいま」
返事はない。まだ親は帰っていないらしい。鞄を置いて、制服の上着を脱ぐ。シャツも着替えて、手を洗った。家の中は静かだったが、玄関から持ち込んだ外の匂いはまだ残っている。
上着を椅子の背に掛けたまま、俺はソファに座った。やがて玄関の方で音がした。
インターホンではなく、軽いノック。立って扉を開けると澄がいる。
「入っていい?」
「どうぞ」
「お邪魔します」
澄は中へ入ると、リビングまで来て窓の方を見た。
「慧くん、窓ちょっと開けていい?」
「ああ」
「じゃあ、開けるね」
窓が開く。外の風が入り、室内に溜まっていた空気がゆっくり動いた。
俺がソファへ戻る横で、澄は椅子の背に掛かっていた上着を手に取る。
「これ、向こうに置いておくね」
「頼む」
返事をして背もたれに身体を預ける。澄は上着をリビングから離れた場所へ移し、そのままキッチンへ入った。
「水、持ってくるね」
「ああ」
棚の開く音がする。俺は開いた窓から入る空気を吸った。学校の廊下や帰り道で重なったものが、まだ鼻の奥に残っている。
「今日、最後の方ずっと人多かったもんね」
キッチンから澄の声がした。
「駅前が一番きつかった」
「やっぱり」
「見てたなら聞くなよ」
「一応、慧くんにも聞いておきたかったの」
「それはそうだけど」
澄が戻ってきて、テーブルにコップを置いた。冷たすぎない水だった。
「はい」
「助かる。ありがと」
「うん」
水を半分ほど飲む。さっきまで鼻の奥に残っていた学校の一日が、ゆっくり薄くなっていく。澄は開けた窓の近くまで行って、外の空気を確かめるように立ち止まった。
「寒くない?」
「今は平気」
「じゃあ、もうちょっとだけこのままにしよっか」
「ああ」
それから時計を見る。
「私、そろそろ戻るね。宿題もあるし」
「分かった」
「窓、あと十分くらいで閉めてね」
「覚えてたら」
「忘れそうだね」
「じゃあ五分にしろ」
「五分でも同じでしょ」
「細かいな」
「それ、さっきも言ってたよ」
澄は呆れたように笑った。
「じゃあ、また明日」
「またな」
玄関まで見送る。扉が閉まって、家の中がまた静かになった。
リビングへ戻ると、窓から入る細い風が、さっきより軽くなった部屋の空気をゆっくり動かしていた。澄はこういうところだけは昔から妙に早い。
俺は残っていた水を飲み、鞄から読みかけの本を出した。五分後に窓を閉めることだけ忘れないよう、スマートフォンのタイマーを入れる。それからソファに座り直して、昨日の続きのページを開いた。
第1章完結です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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