第35話 暮春の夕暮れと、選んだ居場所 3
週末を挟んだからといって、月曜日が特別な顔をして始まるわけでもない。二年三組の朝は、いつも通りだった。
「ねえ玲奈、これ見た?」
水瀬がスマートフォンの画面を柚木へ向ける。
「なに?」
「昨日見つけたんだけど、これ普通に可愛くない?」
「あ、好きそう。莉愛こういうの好きだよね」
「でしょ?」
「でもそっちより隣のやつの方がよくない?」
「え、そっち?」
「私は玲奈の方に一票」
小坂まで覗き込んで、三人で何か言い合っている。内容までは聞いていない。聞く必要もない。
水瀬が笑って、柚木が何か返して、小坂が横から口を挟む。それだけで会話は勝手に続いていた。
金曜日に柚木が香道部へ入ると言ったことも、教室に戻れば教室の生活の一部になるらしい。
「神崎」
名前を呼ばれて顔を上げる。柚木がこっちを見ていた。
「なに」
「今日の一限、提出あったっけ?」
「ない」
「ほんと?」
「疑うなら聞くなよ」
「いや、神崎そういうの忘れなさそうだし」
「なら最初から信じろ」
「はいはい、ありがと」
柚木は笑って、すぐ水瀬たちの方へ戻った。
それで朝の会話は終わった。午前中も昼休みも、いつも通り過ぎた。放課後になっても大きくは変わらない。
終礼が終わった瞬間、教室の空気が一気に動いた。
「じゃ、私部活行ってくる」
水瀬が鞄を肩に掛ける。
「今日もテニス?」
「当たり前でしょ。じゃーね」
「頑張ってー」
水瀬が手を振って教室を出ていく。その後ろでは、小坂たちも帰る準備をしていた。
「玲奈も帰る?」
「んー、あたし提出するの一個ある」
「待つ?」
「いいよ。すぐ終わるし、先行ってて」
「分かった。じゃああとで追いつけそうなら連絡して」
「おっけー」
小坂たちも教室を出ていった。柚木は鞄から紙を取り出して、それを持って別の方向へ向かう。俺も鞄を閉じた。ただ、すぐには立たない。
終礼直後の廊下は嫌いだ。一日の最後になって緩んだ空気に、汗と整髪料と香料が混ざる。そこへ全学年の人間が一斉に移動すると、昇降口まで行くだけで余計に疲れる。五分も待てばかなり違う。急いで帰る理由もない。
澄は今日は桜小路先輩と部の確認をしてから帰るらしい。終礼前にそう聞いている。俺は鞄から読みかけの本を出した。
数ページ進んだ頃には、廊下の声もかなり減っていた。これならいい。本を閉じて立ち上がる。教室を出ると、さっきまで途切れなかった足音はもう疎らになっていた。階段を下り、本棟の一階へ向かう。
昇降口まで来たところで、知っている甘さが混ざった。柚木の香水だ。朝から変わらない、いつもの香り。少し先に本人もいた。ちょうど靴を履き替えたところらしい。
「あ」
向こうも俺に気づく。
「神崎」
「柚木」
「今帰る?」
「そのつもり」
柚木は一度、昇降口の外を見た。
「そっか」
「提出は?」
「終わった。先生捕まえる方が時間かかったけど」
「小坂たちは?」
「先行ってもらった」
「追いつかなくていいのか」
「んー」
柚木が外を見る。少し考えたようにも見えたが、長くはなかった。
「急げば追いつけると思う」
「じゃあ行けばいいだろ」
「いや、そうじゃなくて」
柚木が笑った。
「神崎も帰るなら、一緒に帰ろ」
「俺と?」
「何その確認」
「いや」
断る理由もない。
「いいけど」
「じゃ、決まり」
柚木が先に外へ出る。俺もその後を追った。校門へ向かう生徒はまだいるが、終礼直後ほどではない。外なら空気も流れる。柚木の香水も近ければ分かるが、教室の中で何人分もの香料が重なるよりはずっとましだった。
「ていうか神崎、いつもこのくらいに帰ってんの?」
歩き始めてすぐ、柚木が聞いた。
「毎日じゃない」
「今日は?」
「混んでたから待った」
「あー」
柚木は後ろを振り返る。
「だからあの時間にいたんだ」
「そういうこと」
「あたしも提出終わったの、ほんとさっき」
「ならタイミングが重なっただけだな」
「だね」
次に柚木が口を開いたのは、少し歩いてからだった。
「今日の数学、最後のやつ分かった?」
「どれ」
「黒板の右下に先生が最後めっちゃ急いで書いてたやつ」
「見てない」
「え、神崎でも見てないことあるんだ」
「俺を何だと思ってる」
「授業だけはちゃんと聞いてる人」
「だけは余計だ」
「でも否定しないじゃん」
「面倒だからな」
「それ便利に使いすぎでしょ」
柚木が笑う。俺も返さなかった。
しばらくして信号で止まる。横に並んだ柚木から、香水の甘さと外を歩いた分の体温が薄く届く。信号が変わって、また歩く。
「そういえば水瀬、今日も勢いすごかったな」
「朝の?」
「朝もだけど、部活行く時」
「あれ通常運転。テニスの日ずっとあんな感じだよ」
「体力あるな」
「ね。あたし無理」
「柚木も大して変わらないだろ」
「え、あたしもっと省エネじゃん」
「どこが」
「ほら今とか。めっちゃ静か」
「自分で言った時点で静かじゃない」
「細か」
また笑う。
車の音がして、自転車が横を抜ける。少し離れたところを制服姿の生徒が何人か歩いていた。
柚木はスマートフォンを見るでもなく、そのまま隣を歩いている。俺も何も言わなかった。別に困らない。
少しして、柚木が道端の時計を見た。
「優花たち、もう結構先かな」
「追いつくつもりだったのか」
「最初はね」
「今からでも走れば追いつくんじゃないか」
「走るのやだ」
「じゃあ無理だな」
「即終了させるじゃん」
「自分で嫌だって言っただろ」
「そうだけど」
柚木は少し笑って、それきりだった。
そのまま歩く。会話は、今日の授業とか、教室であったどうでもいいこととか、そのくらいだった。途中で何度か途切れて、またどちらかが口を開く。
駅に近づくにつれて、また人が増えてきた。ここから先は歩く方向もばらける。柚木が足を止めた。
「じゃ、あたしここで」
「ああ」
「また明日ね、神崎」
「またな」
「うん」
柚木は軽く手を上げた。俺もそのまま歩き出す。
数歩進んだところで、ふと思った。
そういえば今日は、何の用事もなかったな。
柚木は、それでも俺と帰った。
信号が青に変わる。俺はそれ以上考えず、人の流れに合わせて歩き出した。




