第34話 暮春の夕暮れと、選んだ居場所 2
旧校舎へ着く頃には、本棟の声はほとんど聞こえなくなっていた。
作法室の戸を開ける。
「お疲れさま、慧くん」
澄が水屋から顔を出した。
「お疲れ」
桜小路先輩は畳の上に小箱をいくつか並べている。その横では星野がノートを開いていた。
「神崎先輩、ちょうどいいところに」
「嫌な予感しかしない」
「まだ何も言ってないんですけど」
「言い方がもう何か頼む時のやつだろ」
「偏見です」
星野は口を尖らせたあと、ノートを俺の方へ向けた。書かれていたのは、前に教わった道具の名前だった。いくつか空欄がある。
「こことここ、どっちがどっちでしたっけ」
「俺に聞くより桜小路先輩に聞けよ」
「先輩、さっきから聞きすぎてるんで」
「遠慮するところ、そこなのか」
桜小路先輩が小さく笑った。
「何度でも構いませんよ。覚える途中なのですから」
「ほら」
「それを神崎先輩が勝ち誇るのおかしくないです?」
勝ち誇っているわけではない。俺は鞄を壁際へ置いた。
澄がいつもの位置に湯呑みを置く。少し前なら、この時間の作法室には桜小路先輩と澄と俺がいることが多かった。今は星野が自然に混ざっている。
それだけでも部屋の音は少し増えた。とはいえ、本棟ほどではない。
俺が席についたあとも、誰かが来るのを待つような空気にはならなかった。桜小路先輩は道具を確認し、澄は茶の用意を続け、星野は空欄を埋めている。俺は鞄から課題を出した。
教室に残った柚木が、このあとどうするのかは知らない。
十五分ほど経った頃だった。廊下から足音が近づいてきて、一度、戸の前で止まる。それから、引き戸が開いた。
「お疲れさまでーす」
柚木だった。誰かに連れてこられたわけでもない。一人で入ってきて、そのまま見慣れた場所まで歩いてくる。
制服には外を歩いた分の空気が残っていた。香水の甘さに、わずかな汗が混じっている。
「来たのか」
「何その反応」
「見れば分かることを言っただけだ」
「もうちょっとあるでしょ」
「お疲れ」
「後付け感すご」
柚木は笑ってから、肩に掛けていた鞄を下ろした。
澄が水屋へ戻る。
「お茶、飲む?」
「飲む。ありがと、澄ちゃん」
返事が速い。柚木は座布団へ腰を下ろして息を吐き、それから畳の上へ両手をつく。
「あー……今日、普通に疲れた」
誰かが手を止めたわけでもなかった。澄は湯呑みに茶を注ぎ、桜小路先輩は開いていた小箱を一つ閉じる。星野だけが顔を上げた。
「金曜って地味にきますよね」
「分かる。六限あたりからもう長い」
「ですよね。今日の最後、体感二時間くらいありませんでした?」
「それは盛ってる」
「先輩、疲れてるわりに元気じゃないですか」
「疲れてても喋るくらいできるし」
いつもの調子だった。澄が差し出した湯呑みを、柚木は両手で受け取る。
「ありがと」
「熱いから気をつけてね」
「うん」
そこで会話は切れた。柚木も次の話題を探さず、湯呑みに口をつけてそのまま座っている。
星野はノートへ戻り、桜小路先輩も道具の確認を再開する。澄は俺の前にも茶を置いて、水屋へ戻っていった。
しばらくして、俺が課題を一問片付けた頃。
「神崎」
「ん」
「今日さ」
柚木は湯呑みを持ったまま俺を見る。
「時間、空いたんだよね」
「そうだな」
「知ってんじゃん」
「見える位置だっただけだ」
「またそれ?」
柚木が笑う。
教室で小坂の頼みを断ったことは知っている。その結果、十分か十五分くらいの時間が残ったことも。ただ、それだけだ。
「それで今日、来たんだ」
柚木はそう言って、茶を飲んだ。説明はそれ以上続かなかった。俺も聞かなかった。
いつここへ来ると決めたのかは分からない。俺は一度も誘っていない。それでも、今ここに柚木がいる。
「それ、何してるんですか?」
少しして、柚木が桜小路先輩の方を見た。
「次に使う道具の確認ですよ。数と状態を見ています」
「へえ。こういうのもやるんですね」
「使うだけでは続きませんから」
「そりゃそうか」
柚木は湯呑みを置くと、並んでいる小箱を覗いた。
前なら、そのまま「手伝おっか」と言っていたかもしれない。今日は言わない。桜小路先輩が作業を続ける横で、ただ見ている。
「それとそれ、同じに見えるんですけど、違うんですか?」
「こちらは――」
桜小路先輩が手を止め、二つの違いを短く説明する。柚木は何度か頷いた。
「あ、そういう見方するんですね」
「興味があれば、次に扱う時に実際に見てみてください」
「見たい」
返事はすぐだった。それから柚木は、桜小路先輩が確認を終えた小箱を指した。
「これ、戻すやつですか?」
「ええ。そちらへお願いできますか」
「はい」
一つ受け取って、言われた場所へ置く。続けて全部を引き取ろうとはしなかった。自分の前に来た分だけを動かして、また座る。
星野がそれを横目で見た。
「先輩、もう普通に部員みたいですよね」
「え?」
「来るし、お茶飲むし、手伝ってるし」
「それ部員の条件なの?」
「少なくとも神崎先輩は大体クリアしてます」
「俺を基準にするな」
「じゃあ参考にならないか」
「おい」
柚木が吹き出した。桜小路先輩まで笑っている。澄は水屋から戻ってくると、空いた皿を静かに端へ寄せた。
「でも、柚木はよく来るようになったな」
俺が言うと、柚木がこっちを見る。
「迷惑?」
「言ってない」
「じゃあいいじゃん」
「だから止めてもないだろ」
「そうだけどさ」
柚木は少し笑って、それ以上は何も言わなかった。
また時間が流れる。星野が桜小路先輩へ質問し、澄が棚の中を確認する。俺は課題の続きをやる。
柚木は途中でスマートフォンを一度見たが、すぐ伏せた。そのあとも立ち上がらない。気づけば、さっきまで口にしていた疲れの話も消えていた。
なくなったかどうかは知らない。ただ、話題の中心ではなくなった。
「桜小路先輩」
声を掛けたのは、柚木だった。桜小路先輩が手元から顔を上げる。
「はい」
柚木はさっき戻した小箱の方を一度見た。
「香道部って、今からでも入れますか?」
星野の鉛筆が止まった。澄もそちらを見る。俺も顔を上げた。
驚いて止まったのは、その一瞬だけだった。
「ええ。入部を考えているのですか?」
「はい」
柚木は頷いた。一度だけ、部屋の中へ視線を動かす。
並べられた道具。
開いたノート。
水屋に立つ澄。
桜小路先輩。
星野。
最後に俺の方まで来た視線は、そのまますぐ桜小路先輩へ戻った。
「あたし、ここ好きなんですよね」
明るい声だった。教室で誰かと話している時と、それほど違わない。
「これからも来たいし。まだ知らないこといっぱいあるし。来て見てるだけじゃなくて、もうちょっとちゃんと混ざってみたいんです」
そこで少しだけ笑う。
「だから、入ってもいいなら、入りたいです」
桜小路先輩はいつもの調子で頷いた。
「もちろんです。歓迎しますよ」
「ほんとですか?」
「ええ。手続きについては、あとで確認しておきましょう」
「よかった」
柚木の肩から少し力が抜けた。
星野がすぐに口を挟む。
「じゃあ先輩、正式にこっち側ですね」
「こっち側って何」
「部員側です」
「さっき部員の条件、お茶飲むことにしてなかった?」
「それは暫定です」
「適当すぎ」
柚木が笑う。澄も小さく笑っていた。
「これから一緒だね」
「うん。よろしく、澄ちゃん」
それで歓迎は終わったらしい。
桜小路先輩はまた道具へ手を戻し、星野もノートを開き直す。澄は湯呑みの残りを確認している。
柚木だけが、なぜか俺を見ていた。
「神崎は?」
「何が」
「なんかないの?」
「入るのは柚木だろ」
「そうだけど」
柚木の眉が少し寄る。言葉が足りなかったらしい。
「……まあ、歓迎はする」
「遅っ」
「言わせたのそっちだろ」
「普通そこは最初に言うじゃん」
知らない。
柚木は文句を言いながらも笑っていた。さっきまでいた場所へ戻って茶を飲み、星野のノートを覗いて空欄を一つ指差す。
「これさっき聞いてなかった?」
「復習です」
「絶対忘れたやつじゃん」
「先輩、入部初日から厳しくないですか?」
「まだ入部初日じゃないし」
「じゃあ今のうちに優しくしてください」
「意味分かんない」
その横で、桜小路先輩が確認を終えた道具を箱へ戻していく。澄が空いた湯呑みに茶を足す。俺は途中だった問題へ目を戻した。
「神崎先輩、ここ分かんないです」
「桜小路先輩に聞け」
「またそれ言う」
星野の声に、柚木の笑い声が重なる。俺は仕方なくノートを覗いた。
西日はまだ、障子の向こうに残っている。作法室の金曜は、何事もなかったみたいにそのまま続いていた。




