第33話 暮春の夕暮れと、選んだ居場所 1
金曜の朝になっても、柚木は静かになっていなかった。
「それ昨日も言ってたじゃん。だから先に先生に聞けばよかったのに」
前の席に鞄を置いたまま、小坂優花と笑っている。
「聞こうと思った時にはもう先生いなかったの」
「じゃあ今日聞けばよくない?」
「それで済む話を昨日から悩んでたの、私?」
「そうなるね」
「玲奈ひど」
「事実じゃん」
俺が席へ着く頃には、話題はもう別のものへ移っていた。柚木の香水も昨日と同じだった。近づけば甘さが強い。離れていれば、教室に混ざる。
それだけだ。
「神崎、おはよ」
「おはよう」
「今日ちゃんと金曜って分かってる?」
「何の確認だ」
「顔が月曜」
「毎日これだろ」
「それもそうか」
納得するな。
柚木は笑って、自分の席へ戻った。昨日あれだけ話したあとでも、朝は普通に始まった。
午前中も大して変わらなかった。
二時間目の休み時間、前の方でプリントを見比べていた二人に柚木が呼ばれた。
「柚木、これどっち出すやつだっけ?」
「こっち今日。そっちは月曜」
「助かった」
「名前書いてから出しなよ。昨日も忘れてたでしょ」
「あ、ほんとだ」
「危な」
それだけ言って戻ってくる。
昼には小坂たちと笑っていたし、移動教室では後ろの奴に教科書を渡していた。
午後になると、朝より少しだけ柚木の反応が遅くなった。休み時間になった直後にすぐ立たず、一度だけ椅子の背へ身体を預ける。
香水の下に混じる汗も、昼よりわずかに増えていた。金曜の六時間目まで来れば、その程度は珍しくない。
俺はミントを一粒口に入れて、次の教科書を出した。
終礼前、担任が教室へ戻ってくるまでの数分。小坂が何枚かの紙を持って、柚木の机の横へ来た。
「玲奈、今日このあとちょっと時間ある?」
「ん?」
柚木が顔を上げる。
「これ、古いのと新しいの分けたいんだけど。終礼あと少し手伝える? 十分くらいで終わると思う」
紙の束は薄い。小坂一人でもできそうだし、二人なら早く終わる。その程度の量だった。
「いい――」
柚木の口がそこで止まった。たぶん、最後まで言っていれば「いいよ」だった。返事の速さも声の調子も、今まで何度か聞いたものと変わらない。その途中だけが、不自然に切れた。
ほんの一拍。
小坂は続きを待っている。俺の席からは、柚木の横顔が見えた。柚木は身体を起こし、視線を紙の束へ落とした。
十数分。
やろうと思えばできる量だ。
それから小坂へ戻る。
「今日ちょっと……」
続きが出ない。
柚木は一度だけ息を吐いた。
「ごめん。今日はやめとく」
小坂が瞬きをした。
「そっか。分かった」
小坂は理由を掘らなかった。紙の束を持ち直して、後ろを振り返る。
「じゃあ私、先に半分やっとこ。残ったら誰か捕まえる」
「うん、ごめんね」
「大丈夫。ていうかこれさ、同じの二枚混ざってない?」
小坂が束の途中から一枚引き抜く。
柚木も反射的に覗き込んだ。
「あ、それ去年のじゃない?」
「やっぱり? なんで入ってんの」
「知らないし。先生じゃない?」
「あとで聞こ」
もう頼みの話ではなかった。小坂は紙を揃えながら自分の席へ戻っていく。
柚木はその背中を目で追った。二秒くらい。何か言うでもなく、呼び止めるでもない。
小坂は途中で別の女子に声を掛けられ、そのまま紙を見せながら話し始めた。教室の空気も変わらない。
窓際では男子が週末の予定を話している。廊下から別のクラスの声が入ってくる。前の席では誰かが消しゴムを落とした。
柚木がゆっくり前を向いた。その時、目が合った。
「何」
「別に」
「絶対なんか見てたじゃん」
「見える位置だっただけだ」
「そういう返しすると思った」
柚木は少しだけ眉を寄せたあと、机の上のペンを指で転がした。
断ったことで、教室の何かが壊れることもなかった。
担任が入ってきて、教室の声が収まる。
終礼もいつも通りだった。
連絡事項が二つ。週明けの提出物が一つ。掃除当番の確認。
それが終わると、一日を閉じるみたいに椅子が一斉に鳴った。
「玲奈、これ月曜まででいいんだよね?」
鞄へ教科書を入れていた小坂が、さっきとは別の紙を持ち上げた。
「それは月曜。朝出せば大丈夫」
「了解。じゃ、忘れないようにしないと」
「それ毎回言ってない?」
「今回は覚えてるから」
「信用ないなあ」
「玲奈に言われたくない」
「なんで?」
「この前――」
二人はそのまま話しながら教室の後ろへ移動していった。
俺は鞄を持ち上げた。今日は金曜だ。このあと旧校舎へ行く。
いつもと同じ。
教室を出ようとしたところで、後ろから小坂の声がした。
「じゃ、私これやってから帰るね」
「おっけー。じゃあまた月曜」
「またね」
柚木も鞄を肩へ掛ける。
小坂は紙の束を持ったまま、近くにいた別の生徒へ何か聞いていた。手伝う人間を探しているのかもしれない。柚木はそっちへ一歩も動かなかった。
その代わり、机の横へ立ったままスマートフォンを取り出す。画面を見て、すぐ閉じる。
「神崎、部活?」
「そうだけど」
「そっか」
昨日と同じ質問だった。ただ今日は、そのあとに「帰る」とも「どこか行く」とも続かなかった。
俺は教室の扉へ向かう。廊下には、昨日の同じ頃より少し長く西日が残っていた。四月も終わりに近い。
部活へ向かう声と、帰る連中の足音が重なっている。
「じゃあな」
「うん。またね」
廊下へ出ても、柚木はついてこなかった。だからといって、校門へ向かったわけでもない。教室に残ったままだ。
少なくとも十分か十五分。何か大きな予定を入れるには短いし、何もしないならそのまま消えるくらいの時間だ。さっきまでなら、小坂の紙を分けるために使われていたはずの時間がある。
それを何に使うのかは、俺には分からない。俺は階段へ向かった。
後ろの教室から、小坂と誰かの話し声が聞こえる。その中に柚木の笑い声も一度だけ混じった。すぐに廊下の音へ薄れていった。




