第32話 葉桜の放課後と、強がりの素顔 6
しばらくして、廊下の笑い声が遠ざかった。柚木はまだこっちを見ていた。
さっきまで自分で言葉を探していた時より、今の方が妙に動かない。俺が何を言うのか待っているらしい。
「分かった」
柚木の眉がわずかに動いた。
「……それだけ?」
「そういうのが怖いってことは分かった」
「いや、うん。そうなんだけど」
歯切れの悪い返事だった。俺は肩に掛けていた鞄を下ろし、机の横へ掛けた。柚木が話したのは、弱いところを見せた後に扱いを変えられるのが怖い、ということだ。
「もっとなんかないの?」
「なんかって」
「ほら。普通こういう時ってさ。励ますとか、安心させるとか」
「必要なら言え」
「そういうとこだよ、ほんと」
呆れた声が返ってきた。でも、さっきまでより速い。
「じゃあ何。あたしが『今から励ましてください』って申告すんの?」
「欲しいものが分かってるなら、その方が早いだろ」
「神崎相手に情緒を求めたあたしが悪かった」
「そうか」
「そこ否定しろし」
反射みたいに返ってくる。いつもの柚木だった。
それで話が終わるかと思ったところで、柚木が一度だけ視線を逸らした。
「……別にさ」
「ん」
「だからって、いつも無理して明るくしてるとかじゃないからね」
今度は少し早口だった。
「友達といるのも普通に楽しいし、喋るの好きだし。さっき言った通り、誰かのこと手伝うのだって嫌々全部やってるわけじゃないし」
「知ってる」
「……は?」
「それは知ってる」
柚木がこっちを見る。
「なんでそんな即答なの」
「今日、水瀬たちの話まとめた時も楽しそうだっただろ」
「見てたの?」
「同じ教室にいたからな」
「そういう意味じゃなくて」
柚木は額を押さえた。
「ほんと、変なとこ見てるよね」
「お前が目立つだけだ」
「それ褒めてる?」
「事実」
「はいはい」
雑な返事と一緒に、柚木が笑う。今度の笑いは途中で止まらなかった。
俺はそれ以上、今の笑いの裏を探さなかった。本人が楽しいと言っていて、実際にそう見える。それで十分だった。
教室の後ろで誰かが窓を閉めた。夕方の風が切られて、薄く入っていた外の匂いが止まる。代わりに、残った数人分の制服と紙と、机の木材の匂いが少しだけ近くなった。
残っていた生徒も減っている。さっきまで教卓の前で話していた二人も、プリントを抱えて廊下へ出ていった。教室に残っている理由がある奴から順に動いて、用事が終わった奴から帰っていく。
俺たちも、もうここにいる理由はほとんどない。
俺は机の横へ掛けていた鞄を持ち上げた。
「帰らないのか」
「帰るよ。神崎がずっと喋らせるから遅くなったんじゃん」
「自分から話しただろ」
「はい出た正論」
柚木も鞄を肩へ掛ける。
「ていうか、こういう話した直後に普通に正論返してくる?」
「話したら何か変わるのか」
言ってから、少しだけ考える。知らなかったことを知った。これから見えるものは少し増える。
でも、それで柚木まで別の人間になるわけじゃない。
「……いや」
柚木が小さく答えた。
「変わんないなら、別にいいけど」
その言い方に何か返す前に、廊下から大きな声が飛んできた。
「柚木ー、まだいたの?」
別のクラスの女子らしい。柚木がすぐ扉の方を向く。
「いたー! 今帰る!」
声の高さも返す速さも、いつも通りだった。相手が「じゃーねー」と手を振って、そのまま階段の方へ消えていく。柚木も軽く手を振った。
「何」
視線に気づいたらしい。
「別に」
「その『別に』絶対なんかあるじゃん」
「ない」
「神崎が言うと信用ないんだけど」
「お前にだけは言われたくない」
「うわ、根に持ってる」
笑いながら、柚木が俺の横へ来る。同時に、後ろから机を運んでいた男子が「悪い」と通路へ入ってきた。避ける場所がなくて、柚木が一歩こっちへ寄る。
甘い香水が急に濃くなった。さっきまで距離があった分、余計に強い。鼻の奥が軽く刺される。
「近い。香水」
柚木の動きが止まった。一秒にも満たない。それから、半歩離れる。
「はいはい。これでいい?」
「助かる」
「ほんっと鼻だけは容赦ないよね」
「鼻以外なら容赦してるみたいに言うな」
「してないね」
「だろ」
「自分で認めるんだ」
男子が机を抱えたまま横を抜けていく。通路が空くと、柚木はそのまま距離を戻さず歩き出した。俺も何も言わない。
階段へ向かう廊下は、部活へ急ぐ連中と帰る連中が入り混じっていた。
教室より匂いが多い。汗、整髪料、外から入った土埃、どこかの教室で開けた菓子の甘さ。
その中で柚木の香水はまだ分かりやすい。距離が保たれていれば、さっきほどきつくはない。
「神崎、これから部活?」
「ああ」
「そっか」
階段を一段下りてから、柚木が続ける。
「あたし今日は帰る」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
「……ほんとに何も聞かないね」
「聞いてほしいのか」
「いや」
「じゃあ聞かない」
「うん」
今度の返事は軽かった。
昇降口まで来る。靴箱の前で人の流れが二つに分かれた。俺は旧校舎へ向かう。柚木は校門側へ帰る。数日前なら、その違いにもう少し引っかかったかもしれない。
上履きを履き替えていると、少し離れたところから声がした。
「神崎」
顔を上げる。柚木はもう靴を履き終えていた。肩に鞄を掛け、片手を軽く上げる。
「じゃ、また明日」
いつもの調子だった。
俺も靴の踵を直して立ち上がる。
「また明日」
柚木はそれ以上何も言わず、校門の方へ歩いていった。甘い香水も、人の流れに混じって少しずつ薄くなる。
俺は反対側へ向かった。




