第31話 葉桜の放課後と、強がりの素顔 5
「……神崎」
鞄を肩に掛けたところで、背中から呼び止められた。振り返る。
教室にはまだ何人か残っている。教卓の近くでプリントをまとめる奴。窓際で部活の時間を確認している奴。さっきまでよりはずっと静かで、椅子を引く音や廊下の声が妙に通った。
柚木は自分の鞄に手をかけたまま、こっちを見ていた。
「……聞かないんだ」
「何を」
「分かってるくせに」
「分かってないから聞かない」
返すと、柚木が一度だけ瞬きをした。
「いや、そこ普通は逆じゃない?」
「そうか?」
「分かんないなら聞くでしょ」
「聞いたら、お前が答えないといけないだろ」
「……なにそれ」
「別に答えなくていいなら、聞く意味ない」
柚木の口元が少し歪んだ。
呆れた時の顔に近い。ただ、そのまま「ほんと神崎って変」と笑って終わるかと思ったのに、今日は続かなかった。
俺は待った。
聞きたいなら、聞けばいい。前ならそうしていた。でも一昨日、それをやって失敗した。本人がまだ言っていないところに、俺が先に答えを置いた。だから、今回は置かない。
「……全部、間違ってたわけじゃないんだよね」
柚木が先に口を開いた。
「神崎が言ったこと」
「ん」
「嫌われたくないとか。空気悪くなるの嫌とか。そういうのは、たぶんある」
そこで、柚木は机の端へ視線を落とした。指先が鞄の持ち手をいじる。
「ていうか、そりゃ嫌でしょ。普通に。友達に『こいつ面倒』って思われたい人いないじゃん」
少しだけいつもの調子が戻る。けれど、その軽さは長く続かなかった。
「でもさ」
柚木が顔を上げた。
「だから全部やってる、みたいに言われたのが、たぶん一番ムカついた」
俺は何も返さなかった。
「友達と喋るの、普通に好きだし。遊ぶのも好き。頼られるのだって……まあ、嫌じゃないし」
最後だけ少し言い方が雑になる。
「今日だって、莉愛と優花の話まとまったじゃん。あれ、別にやらされてないからね。あたしが勝手に入っただけだし。まとまったら、普通にちょっと嬉しいし」
それは知っている。朝から見ていた。でも、俺が見ていたことと、柚木がそう言うことは同じじゃない。
「困ってるの見つけたら、やった方が早い時あるじゃん。で、あたしができるならやればいいし。そういうの、別に嫌いじゃない」
柚木はそこで一度止まった。
「……むしろ、やらなかった時の方が後から気になるかも」
「やらなかった時?」
俺はそれ以上、言葉を足さなかった。
「うん。あー、あれやっとけばよかったな、とか。あの時ちょっと声かければ済んだのにな、とか。そういうの残る方が、なんか嫌」
言いながら、自分でも確かめるみたいに眉を寄せる。
「だから、できるならやる。そこまでは、普通にあたしがやりたいんだと思う」
そこでまた、言葉が止まった。廊下を走っていく足音が遠ざかる。窓の外から運動部の掛け声が少しだけ入ってきた。
「で……たぶん、その先なんだよね」
「その先」
「ほら、もうやらなくてもいいのに拾うやつ」
柚木が苦笑した。
「神崎、そこ見てたじゃん」
「見てた」
「だよね。最悪」
「今さらだろ」
「そういう意味じゃないし」
反射みたいに返してから、柚木は小さく息を吐いた。甘い香水がわずかに揺れる。
近い距離なら、そこに混じるもっと細かい変化まで拾える。今は、それを答え合わせに使う気はなかった。
「なんかさ。断る方が、あとで面倒になりそうって思う時あるんだよね」
「面倒?」
「いや、実際面倒になるって意味じゃなくて」
柚木がすぐに言い直す。
「たとえば、みんなで何か決めてて、あたしが『それ無理』って言ったら、じゃあどうするってなるじゃん。予定変えるとか、誰かが代わるとか。別にそれくらい普通なんだけど」
言葉が少し遅くなる。
「でも、その瞬間に、あたしのせいで一回止まった、みたいになるのが嫌っていうか」
「止める側になるのが?」
「……たぶん」
柚木は自分で答えてから、微妙な顔をした。
「なんか神崎に言われると急にダサいな」
「聞いただけだ」
「分かってる。だから余計やなの」
その返しに、少しだけ笑いが混じる。すぐに消えた。
「ノリ悪って思われたら嫌だし。面倒な子って思われるのも嫌。あたしが『今日はこっちがいい』って言ったせいで、誰かが合わせることになるのも……なんか、悪いじゃん」
そこまで言って、柚木が「あ」と声を漏らした。
「でも、別に莉愛たちがそういうこと言うって意味じゃないから」
先回りするみたいに言葉が速くなる。
「優花も莉愛も、あたしが断ったくらいでキレたりしないし。普通に『じゃあ別でよくない?』って言うし。そこは分かってる」
「ん」
「むしろ、あの二人といるの楽しいし」
柚木は少し考えてから、机に腰を預けた。
「……好きだから、変にしたくないのかも」
声はさっきより小さかった。
「仲いいのに、自分から変な空気にするの嫌じゃん。だったら、できる方がちょっと合わせれば済むし」
「それで自分が合わせる」
「毎回そうってわけじゃないけど」
反射的に否定してから、柚木は黙った。
「……いや。多いのか」
俺は答えなかった。
柚木はしばらく自分の靴先を見ていた。
「疲れないわけじゃないよ」
唐突に、話が一昨日へつながった。
「そりゃ疲れる時はあるし。一昨日も普通にしんどかったし。神崎が見たの、そこは合ってる」
「ん」
「でも、『今日ちょっと無理』って言ったら、みんな気にするでしょ」
柚木は鞄から手を離して、両手を軽く広げた。
「じゃあこれはこっちでやるね、とか。今日の予定変える? とか。別にそれも普通だって分かってるんだけどさ」
一度、笑おうとした。けれど、うまく続かなかった。
「自分がしんどいって言ったせいで、周りに気ぃ遣わせるのが……嫌なのかも」
「嫌」
「うん。たぶん」
今度は、否定しなかった。
「まだできるなら、自分でやった方が早いし。そうしたら誰も変えなくていいし」
そこまでなら、今まで見てきた柚木の行動とつながる。ただ、柚木の話はそこで終わらなかった。
「あと……」
声が止まる。
「これ、ちょっと言うのやだな」
「じゃあ言わなくていい」
「そういうこと平気で言うの、ほんとズルい」
「なんでだよ」
「言わなくていいって言われたら、自分で言うか決めなきゃいけないじゃん」
「お前の話だろ」
「正論で殴るな」
いつもの調子に近い言葉だった。でも、柚木は笑わなかった。数秒迷ってから、俺を見る。
「弱ってるとこ見せた後にさ」
そこで一度、息を止める。
「扱い変わるの、ちょっと怖いんだよね」
教室の外で、誰かが笑った。
柚木はそっちを見ない。
「大丈夫? って聞かれるのが嫌ってわけじゃないよ。心配してくれるのは、普通にありがたいし」
言い訳みたいに早口になってから、ゆっくり戻る。
「でも一回『この子しんどいんだ』って思われたら、その後ずっと気にされるかもしれないじゃん。前なら普通に頼まれてたことも、『柚木はやめといた方がいいかな』ってなったり」
柚木の指が、制服の袖口をつまんだ。
「明るくしてても、ほんとは無理してるんじゃないかって見られたり」
少しだけ眉が下がる。
「それで、なんか……今までと違う人みたいに扱われるのが、一番やなのかも」
俺の中に、いくつか言葉が浮かんだ。それでも、口は開かなかった。
「だから」
柚木が少し迷ってから続ける。
「弱いとこ見せるのが怖いっていうより……見せた後、かな」
視線が合う。
「その後で、相手が変わるのが怖い」
今度は軽口を足さなかった。
俺も、すぐには何も返さなかった。
遠くで椅子の脚が床を擦った。
柚木も続けない。
俺も、まだ何も言わなかった。




