第30話 葉桜の放課後と、強がりの素顔 4
木曜日の朝も、柚木は普通にいた。水瀬と小坂の机のそばで話して、笑って、途中で別の奴に呼ばれればそっちを向いて返事をする。香水も昨日と同じだった。
甘い香りは教室の中で相変わらず目立つ。近くを通れば強いし、俺としては薄い方がありがたい。それでも、柚木が何かを誤魔化すために今日だけ変えたような差はない。
俺が席へ向かう途中、柚木が顔を上げた。
「おはよ、神崎」
「ん。おはよ」
それだけで会話は終わった。
二時間目が終わった休み時間、斜め前で机が寄せられる音がした。次の授業で使うグループ課題の担当を決めているらしい。
「私、発表でもまとめでもいいよ」
水瀬がプリントを覗き込みながら言う。
「私もどっちでもいいけど。莉愛、発表の方がやりやすくない?」
「優花がやりたいならそっちでもいいし」
「いや、別にやりたいってほどじゃ……」
二人とも譲っているせいで、話が進まない。揉めているわけじゃない。だから放っておけば、そのうち決まる程度の話だ。
「じゃ、莉愛が発表で、優花が資料まとめでよくない?」
柚木が間へ入った。
「莉愛、人前で喋る方が早いじゃん。優花はまとめる方が丁寧だし。逆がいいなら変えればいいけど」
「あー、じゃあ発表やる」
「それなら私、まとめる」
「決まり。早」
柚木が笑う。水瀬も小坂も、つられて笑った。
柚木も満足そうだった。そこで止まっていれば、何も引っかからなかった。
「共有するとこ、後であたし一回見とくね」
柚木がプリントの端を指した。
小坂が顔を上げる。
「そこ、別に誰かが見るって決めてなかったよね?」
「うん。でも最後ズレたら面倒じゃん。すぐ終わるし」
「じゃあお願いしていい?」
「おっけー」
軽い。誰も押しつけていない。必要だった担当分けは、もう終わっている。
それでも柚木は、自分で一つ増やした。一昨日ほど疲れてはいない。反応も遅れていないし、予定を取り違えてもいない。
それでも形は同じだった。人を助けて、本人も楽しそうで、その後でもう一つ拾う。
午後の授業中、黒板の文字をノートへ移しながら、一昨日の会話が頭に戻ってきた。
――好きでやってるの。あたしが。
今日の柚木を見れば、そこはやっぱり変わらない。その後に仕事を一つ増やしたことも事実だ。疲れているという観測が間違っていたわけじゃない。
なのに俺は、一昨日、その二つの意味まで自分で分けようとした。昨日の作法室を思い出す。
教室では普通に話した。でも、来なくてもいい場所には来なかった。
あれは柚木が自分で選んだ。そこでようやく、一昨日の言葉が腑に落ちた。
俺が間違えたのは、柚木の行動を見たことじゃない。その理由まで、本人より先に埋めたことだ。
本当の理由は、まだ分からない。
放課後になると、教室の中でいくつかの用事が同時に動き始めた。柚木は午前のグループ課題の紙を持ったまま、別の班員へ声をかけている。
「さっきの担当、これで大丈夫? そっち希望あるなら今変えられるけど」
今のは柚木本人がやりたい確認らしい。その横には欠席者分を含んだ配布物が数枚まとまっていた。そっちは頼まれたものらしく、前の席の奴が「悪い、頼む」と声をかけていく。
さらに教卓の端には、図書室のラベルが貼られた参考資料が三冊。柚木がそれに気づいた。
「あ、これも返しとこ」
誰に頼まれたわけでもないらしい。一昨日みたいな限界にはほど遠い。だからこそ、今ならまだ選べる。
「柚木」
声をかけると、柚木が振り向いた。
「なに?」
明るさはいつもと大きく変わらない。ただ、俺が何を言うのか待つ目は少し固かった。当然だと思う。
「一昨日のこと」
それだけで、柚木の口元から笑いが少し消えた。
「……うん」
「俺が間違えた」
柚木は何も言わない。続きを待っている。
「お前が疲れてたって見たことじゃない」
一度言葉を切る。
「なんでそこまでやるのかまで、俺が勝手に決めた。そこが間違ってた」
柚木の眉がわずかに動いた。
「……今さら?」
「今さら」
「遅くない?」
「遅い」
返すと、柚木が一瞬だけ目を細めた。笑ったわけではない。でも、さっきより肩の力が少し抜けた。
「悪かった」
「……うん」
許されたのかは分からない。少し間を置いてから、続けた。
「お前がなんでそこまでやるのかは、まだ分からない」
「は?」
予想どおりの反応だった。
「新しい答えが出たわけじゃない。分からないまま」
「……それ、わざわざ言う?」
「言っといた方がいいだろ。前は分かったつもりで失敗した」
柚木が数秒黙る。その間に、教室の後ろで椅子が鳴った。部活へ向かう連中が出ていき、人の数が少しずつ減る。
俺はそこで話を止めた。ふと、教卓の端の参考資料が目に入った。三冊とも図書室の管理ラベルが貼られている。
返却するだけなら、相手の顔も事情も知らなくていい。俺でもできる。
「それ、図書室のやつか」
「え? ああ、うん。返しとこうかなって」
「それなら俺でもできる」
「……神崎?」
「俺に回していいなら、返してくる」
柚木が黙った。視線が、俺と本の間を一度往復する。
「別に、そこまでしなくていいけど」
「じゃあ自分でやればいい」
「え」
「渡せって言ってるわけじゃない。回していいならやるってだけ」
柚木はまた本を見る。手元には配布物もある。少し離れたところでは、さっき確認していた班員が柚木を待っている。
「……じゃあ」
柚木が三冊を持ち上げた。
「これだけ、お願いしていい?」
「ん」
受け取る。紙と表紙の乾いた匂いが近づいた。
「返すだけだからね」
「見れば分かる」
「そういうとこ」
今度は、ほんの少しだけいつもの調子が混ざった。柚木は配布物を持ったまま、待っていた班員の方へ戻る。
俺は三冊を抱えて教室を出た。図書室までの廊下には、まだ部活へ向かう生徒が残っていた。人とすれ違うたびに整髪料や汗の匂いが入ってくる。面倒ではあるが、三冊返すだけなら大した距離じゃない。
図書室へ入り、返却場所を確認して、三冊を返す。誰かが驚くこともない。何かが解決した感じもしない。
ただ、頼まれたものを返しただけだ。
教室へ戻る頃には、人はさらに減っていた。柚木は自分で残した用事を終えたらしく、鞄の中へプリントをしまっているところだった。俺を見ると、少しだけ顔を上げる。
「返してきた?」
「返した」
「そ。ありがと」
「ん」
一件を俺に渡しても、柚木がやりたかったことまで消えたわけじゃない。
「じゃ」
鞄を肩に掛ける。
柚木の本当の理由は、まだ分からない。




