第29話 葉桜の放課後と、強がりの素顔 3
教室に入って最初に聞こえたのは、柚木の笑い声だった。
水瀬と小坂の机の間で、昨日までと変わらない調子で何かを話している。声の高さも、身振りも、周りが返した言葉を拾う速さも普段どおりだ。
香水も同じだった。朝の教室に混ざる整髪料や柔軟剤の中で、柚木の甘い香りだけは相変わらず輪郭が強い。
昨日、廊下で俺に向けていた低い声とは違う。
――そこじゃない。
最後に残された言葉は、結局まだ分からない。柚木は昨日のことを教室全体へ持ち込んでいない。それ以上は分からない。俺は鞄を机の横へ掛けて、席に座った。
一時間目が終わり、提出物が前から順に回収された。
俺がノートを閉じたところで、斜め前から声が飛んでくる。
「神崎、それ次のやつじゃない?」
顔を上げると、柚木が俺の手元を指していた。机の端に置いていたプリントを見る。確かに違う。
「……こっちか」
「そうそう。朝から違うの出したら先生に先取りアピールできるけど」
「いらない」
「だよね」
柚木は笑って、自分のプリントを前へ回した。
必要最低限の返事だけで切られたわけでもない。かといって、昨日のことに触れる気配もない。
声も表情も、俺に向けた時だけ露骨に変わったわけじゃなかった。普通に話せる。それは確認できた。何が普通なのかまでは、まだ分からない。
昼休みになっても、状況は変わらなかった。
柚木は水瀬や小坂と話し、途中で別のクラスメイトに呼ばれればそちらへ返事をする。笑う時は笑うし、相手が話している時にはちゃんと聞く。
昨日の一件だけを切り取れば、もう少し何か変わるかと思っていた。実際には、学校は何事もなかったみたいに進んだ。
授業が始まれば教師が来るし、休み時間になれば椅子が鳴る。廊下を人が通り、昼には弁当とパンの匂いが混ざる。
午後、柚木が前の席の奴に消しゴムを貸して、返ってきた時には普通に礼を受け取っていた。誰かの小さな困り事を拾うのも、笑って返すのも、昨日までと変わらない。それを見て、また理由を考えかけたが、やめた。昨日の答えだけが出ないまま、午後の授業まで終わった。
放課後。
椅子を引く音が重なり、教室の空気が一気に動く。窓の外では、桜はもう花より葉の方が目立っていた。俺は鞄を持って立った。柚木は少し離れたところで水瀬と話している。
今日、作法室に来るのか。一瞬だけ頭に浮かんだが、聞かずに教室を出た。
本棟を離れるにつれて、人の匂いが薄くなる。階段を上がり、旧校舎の奥まで来る頃には、呼吸はだいぶ楽になっていた。作法室の引き戸を開ける。
「お疲れさま、慧くん」
澄が顔を上げた。
「ん」
窓際では桜小路先輩が道具を整えている。星野は低い台へノートを広げていた。
いつもどおりだった。俺は鞄を置き、空いている場所に座る。少しして、澄が湯呑みを置いた。
「熱くないようにしてるよ」
「ありがと」
一口飲む。
教室にいた時より、空気が薄い。匂いがないわけじゃない。畳も、茶も、木も、人もいる。ただ、互いに押し合わない。
今日はさらに一つ、強い刺激がなかった。柚木の香水だ。最近は作法室でも近くにいれば否応なく入ってきた香りが、今日はない。
身体だけで言えば、その方が楽だった。
そのまま宿題を一つ終えた。星野が何度かページをめくり、桜小路先輩が水屋へ立つ。澄も自分の作業を済ませながら、ときどき誰かの湯呑みを見ている。
短い会話が起きて、終わる。また静かになる。引き戸は開かなかった。
しばらくしてから、そこで初めて気づいた。
今日は、柚木が来ないらしい。気づいたところで、おかしくはない。
もともと、柚木がいない作法室の方が長かった。
ここへ来るようになったのも最近だ。部員でもない。毎日来ると決めた覚えもない。
元に戻っただけ。そう片づけて、湯呑みに手を伸ばす。茶はちょうど飲みやすい温度だった。畳の匂いも静かで、廊下から入ってくる外気にも余計な香料は混ざっていない。
何も困らない。むしろ楽だ。
それなのに、会話が途切れた時、俺の注意が一度だけ引き戸へ向いた。
誰も来ない。
すぐ視線を戻す。
部屋に問題があるわけじゃない。
桜小路先輩もいる。澄もいる。星野もいる。空気も、必要なものも、いつもどおり揃っている。
それでも、少し経つとまた、柚木がいないという事実だけが頭に引っかかった。香水がないこと自体は楽だ。そこまで確認しても消えないなら、気になっているのは匂いじゃないらしい。
朝の教室を思い返す。朝、柚木は俺を避けなかった。ただ、教室では同じクラスにいれば勝手に時間が重なる。作法室は違う。来なくてもいい場所へ、これまでは柚木自身が来ることを選んでいた。そんな当たり前のことを、俺は数えていなかった。
「慧くん?」
澄の声で顔を上げる。
「なに?」
「ううん。お茶、もう少しいるかなって」
湯呑みを見る。
いつの間にか空になっていた。
「もらう」
「うん」
澄が湯呑みを取る。
その向こうに、閉じた引き戸が見えた。
昨日の俺の言葉が原因なのかもしれない。違う予定があるだけかもしれない。そこはまだ分からない。
昨日、どこを間違えたのかはまだ分からない。
ただ、以前なら違った。柚木がここへ来る前なら、今日この引き戸が一度も開かなくても、何も思わなかった。いないことを、いないとは数えなかった。
今は違う。
柚木がいる作法室まで、いつの間にか俺の中で普通のものになっていた。だから、元に戻ったはずなのに、俺の方は元に戻っていない。
なら、昨日のことが原因だったとして。このまま、元に戻っただけで済ませるのは違う。




