第28話 葉桜の放課後と、強がりの素顔 2
「それ、今日やる必要あるのか」
教室の出口へ向きかけた柚木が、足を止めて振り返った。
「ん?」
一瞬だけ、本気で質問の意味が分からなかったらしい。
「いや、別に今日じゃなくてもいいけど。今聞いとけば明日ラクじゃん? すぐ終わるし」
「今日必要だった分は、もう全部終わってるだろ」
「まあ、それはそうだけど」
「昼も動いてたし、午後は一回予定を混ぜてた」
「あー……あれね」
柚木は露骨に嫌そうな顔をした。間違えたことを隠すつもりはないらしい。
「だから、もう増やさなくていいだろ。明日でいい」
「なに。心配してんの?」
「処理落ちしてる奴に追加処理させるほど性格悪くない」
「言い方」
口では笑っている。ただ、いつもの柚木なら、そこでもう一言返ってくる。今日は少し遅かった。
俺が言った内容を受け取って、返す言葉を選ぶまでに、ほんの短い空白がある。朝から何度か見ていた。教室を出るタイミング。昼休みの移動。午後の確認。
動きも普段よりわずかに鈍い。近くに立てば、いつもの香水の奥で、体温に押し上げられた皮膚の匂いが少し強くなっている。朝から大きく変わったわけじゃない。変化が小さいまま、一日かけて積み上がっている。体調を崩しているほどじゃない。
ただ、疲れている。
「ちょっと疲れてんのは認めますー」
柚木が片手を上げた。
「でも、別に無理ってほどじゃないし。これくらいやっといた方が、明日楽だから」
そう言って、教室の出口へ向かう。俺も本来なら反対側へ行くところだった。
本棟から離れて、さっさと旧校舎へ逃げる。いつもならそれで終わる。今日は、その背中を見送れなかった。
「柚木」
「んー?」
廊下に出たところで追いつく。部活へ向かう連中が横を抜けていく。ここなら話していても、二年三組全員に聞かれることはない。
「なんでそこまでやるんだ」
柚木の足が止まった。
「そこまでって?」
「今日の分は終わってる。疲れてるのも分かってる。それでも、今やらなくていいことまで増やしてる」
「だから、明日ラクになるし」
「それだけじゃないだろ」
柚木の眉が、わずかに寄る。
「……なにそれ」
「前にも言ってただろ。嫌じゃないって」
「お前が人助けするの好きなのは分かってる」
「……なら、よくない?」
さっきまで少し固かった声が緩んだ。
「好きでやってんだから」
「そこはな」
「そこは?」
俺の中に残っていた違和感が、ようやく形になる。
好きだから始める。それは分かる。だが、それだけでは説明できない。
疲労が出ても止まらない。軽いミスが出ても、減らすのではなく次はもっと正確にやろうとする。
誰にも頼まれていないところまで先回りして、問題になりそうなものを拾う。人間関係の空気が少し悪くなるだけで、自分がやることを増やす。柚木は前からそうだった。
「人を助けたいのと、疲れても止まらないのは別だろ」
「……は?」
「お前、自分がやらなかったせいで空気悪くなるのが嫌なんじゃないのか」
返事はなかった。
俺は続けた。
「面倒な奴だと思われるとか、頼んでも無駄だと思われるとか。そういうので関係が悪くなるのが嫌だから、必要以上に拾ってる」
柚木の表情から、さっきの緩みが消えた。
「……そりゃ、嫌だよ」
否定ではなかった。
「人に嫌われたいわけじゃないし。空気悪くなって楽しいわけでもない」
完全に外れたわけじゃない。人助けが好きで、関係が悪くなるのも嫌。両方なら矛盾しない。
「だったら――」
「でも」
俺の声を、柚木が切った。
「それだけじゃないから」
「分かってる」
「……分かってない」
「人助けするのが好きなのは否定してない。そこは本当だと思ってる」
「そうじゃなくて」
声が低くなる。廊下の向こうで誰かが笑った。その音が消えるまで、柚木は何も言わなかった。
「好きでやってるの。あたしが」
「だから、それは分かってるって」
「分かってないじゃん」
今度は、はっきり返ってきた。柚木がスマホを握り直す。
「神崎、今、『好きでやるところ』と『怖いからやるところ』、勝手に分けたでしょ」
「分けないと、疲れても止まらない理由が――」
「そこじゃない」
短かった。普段の柚木なら、もう少し角を落とす。
相手がどう受け取るかを見て、笑うか、冗談を足すか、言い方を変える。今はしなかった。
「疲れてるのは合ってる。人に嫌われんのが嫌なのも、まあ、合ってる」
「なら――」
「だから、その先まで決めないでって言ってんの」
柚木が一度口を閉じる。何かを言いかけて、やめた。それから、少しだけ視線を逸らした。
「あたしがやりたいって思ったのまで、そっちの理由にしないで」
「してない」
反射的に返した。
「お前が人助けを好きなのは本物だって――」
「ほら」
そこで止められた。
「それ」
「何が」
「神崎が『ここまでは本物』って決めてるじゃん」
意味が取れず、俺は黙った。否定しているわけじゃない。むしろ逆だ。
柚木が人助けを好きだという話を守った上で、説明できない部分だけ別の原因を置いた。そのはずだった。
「でも、疲れてるのは事実だろ」
言った瞬間、柚木の目が細くなった。
「……だから」
一拍置く。
「そこじゃないって言ってる」
また同じ言葉だった。疲労も、取り違えも、必要のない確認も見えている。人間関係への不安も、本人は否定しなかった。
それでも違うらしい。
「じゃあ、どこだ」
聞くしかなかった。柚木はすぐには答えなかった。
怒っている。それも、たぶん本気で。
けれど声を荒らげるわけでも、泣くわけでもない。ただ、俺を見る目から、いつもの「まあいいか」で場を収める気配が消えていた。
「それ、今ここであたしが全部説明しなきゃダメ?」
「いや」
「神崎が納得できるように?」
返す言葉がなくなった。柚木は俺を数秒見て、それから息を吐いた。
「……もういい」
「柚木」
「確認、行ってくる」
「今からか」
「うん」
「俺はやめた方がいいと思ってる」
「それは聞いた」
柚木は鞄の位置を直した。
「でも、これはあたしがやるって決めたから」
それだけ言って歩き出す。追いかけて理由を聞き出せば、さっきと同じだ。
だから追わなかった。
人の流れが減った廊下を、柚木の背中が遠ざかっていく。疲れていた。それは見間違えていない。関係が悪くなるのを嫌がるのも、たぶん外れていない。
それでも、柚木は怒って行った。
俺は何を間違えた。
答えは出ない。
ただ、柚木が最後まで訂正しなかった一つの言葉だけが、妙に耳に残っていた。
――そこじゃない。




