第26話 春陰の片隅と、忘れられた包み 4
少し遅れて、柚木も藤崎の方を見た。水瀬と水野の間にも、まだ言葉が残っている。教室には、帰り支度をする音が増えていた。
鞄のファスナー。机を引く音。廊下から混じる別のクラスの声。日常の方は、こっちの話が終わるのを待ってくれない。
水瀬と水野は、さっきから同じ場所にいるのに視線がほとんど合っていなかった。少し離れた藤崎も、こちらを気にしていないふりをしながら帰り支度の手が遅い。
柚木は三人を順番に見た。何か気の利いたことを言うわけでもなく、まず誰と誰の間に何が残っているのかを確かめているように見えた。
「莉愛」
柚木が呼んだ。水瀬が顔を上げる。
「先に、美緒にもちゃんと言っとこ」
その一言で、水瀬の視線が教室の方へ動いた。藤崎は少し離れた自分の席で、鞄に教科書を入れている。
「水野さんとの話は、そのあとでもできるし」
柚木は決めつけず、水瀬の返事を待った。水瀬は一度だけ水野を見てから、小さく頷く。
「……うん」
「水野さん、ちょっとだけ待っててもらっていい?」
「うん」
俺たちは藤崎の席へ向かった。
「美緒、ちょっといい?」
柚木に呼ばれ、藤崎が顔を上げる。最初に俺を見て、それから水瀬を見た。
「何?」
「アトマイザー、見つかった」
俺が言うと、藤崎の眉がわずかに上がった。
「盗られたわけじゃなかった。水野が漏れてたのを処置して、別の場所に置いてた。藤崎が水瀬の机の近くにいたのは、それより前だ。今回とは関係ない」
必要なのはそこまでだ。水野が怖くなって黙ったことまで、ここで広げる理由はない。
「……そっか」
藤崎の声から、少しだけ力が抜けた。けれど、笑いはしなかった。水瀬が一歩前に出る。
「藤崎さん、ごめん」
藤崎が水瀬を見る。
「私、あの時、藤崎さんかもって思った。違うって分かる前に、変な感じにしちゃったし」
言い切ったあと、水瀬は目を逸らさなかった。藤崎もすぐには答えない。
俺なら、その沈黙を埋めるために事実を一つ足していたかもしれない。柚木は何もしなかった。ただ待っている。
「……正直、ちょっとムカついた」
藤崎が言った。
水瀬の肩が少し下がる。
「うん」
「私じゃないって言っても、なんか空気変だったし」
「うん。ごめん」
もう一度、水瀬が言う。藤崎は短く息を吐いた。
「でも、違ったってちゃんと言ってくれるなら、それでいい」
仲直り、と呼ぶほど大げさなものでもない。ただ、明日同じ教室で顔を合わせても、わざわざ目を逸らさなくて済むくらいには戻った。
柚木がそこでようやく口を開く。
「あと、探すの手伝ってくれてた子たちにも一言だけ戻しとこ」
「あ、そっか」
水瀬が振り返った。さっきまで騒ぎを知っていた何人かに、「見つかった。盗られたんじゃなかった。藤崎さんも関係なかった」とだけ伝える。
詳しい事情までは話さない。聞かれた俺も、同じことだけ返した。水野がどうして言えなくなったのかまで尋ねられた時は、「そこは本人の話だから」と柚木が軽く切った。
事実の訂正には必要ない。
妙な秘密に仕立てるでもなく、全部を説明してしまうでもない。それで十分だった。
共用棚のところへ戻ると、水野はまだ同じ場所にいた。さっきより肩は下がっている。けれど、水瀬が近づくとまた少しだけ姿勢が固くなった。
「水瀬さん」
水野が先に口を開いた。
「さっきも言ったけど……ごめん。勝手に動かしたことも、言うの忘れたことも。あと、聞かれた時に知らないって言ったことも」
水瀬はアトマイザーを見下ろした。
「漏れてたの、止めてくれたんだよね」
「うん」
「そこは、ありがとう。たぶんそのままだったら、もっとひどくなってたし」
水野が少しだけ顔を上げる。
「でも」
水瀬の声はそこで止まらなかった。
「勝手に場所変わって、何も言われなくて、みんなで探すことになって。あとから聞いた時も知らないって言われたのは、普通に困った」
「……うん」
「善意だったのは分かった。でも、それとこれは別」
水瀬らしい言い方だった。丸くするために、不満まで丸める気はないらしい。
水野は小さく頷いた。
「ほんとに、ごめん」
「次からは言って。置く場所変えたなら、それだけでいいから」
「うん。言う」
そこで会話は止まった。柚木は、水野の代わりに理由を足さなかった。水瀬へ「悪気はなかったんだから」とも言わない。
二人の間にできた沈黙を、そのまま二人のものにしていた。数秒後、水瀬がティッシュの包みを持ち直す。
「これ、今日はもう持って帰る」
「うん」
水野の返事はまだ小さい。でも、さっきまでのように床へ落ちる声ではなかった。
水野は自分の席へ戻り、置いたままだったプリントを鞄へ入れる。水瀬もアトマイザーをポーチへ戻しかけて、少し考え、ティッシュごと別に持つことにしたらしい。
「やば。部活」
時計を見た水瀬が急に言った。藤崎が自分の席から顔を上げる。
「今?」
「今」
「遅くない?」
「だからやばいって言ってるの」
さっきまでとは違う種類の声が教室に戻る。藤崎が呆れたように笑い、水瀬が鞄を掴んだ。水野はその横を通って教室を出ていく時、水瀬へ小さく「じゃあ」と声をかけた。
水瀬も普通に「また明日」と返した。普通の挨拶が戻った。俺も今度こそ鞄へ手を伸ばす。
「神崎、帰る?」
柚木が隣で聞いた。
「ああ。今度こそ」
「今度こそって何」
「原因が分かった時点で終わったと思ってた」
柚木が一瞬だけ目を丸くした。それから、呆れたように笑う。
「神崎って、分かったら直ったことにするよね」
「原因が分かれば直せるだろ」
「物ならね」
即答だった。反論しかけて、やめた。俺なら、アトマイザーを見つけて、盗難じゃないと分かったところで終わっていたかもしれない。
藤崎へ先に訂正することも。水瀬の謝罪を水瀬自身に言わせることも。水野の事情を教室中へ広げずに、水瀬の不満だけは消さないことも。
少なくとも、俺一人なら同じ順番にはならなかった。
「……今回は、お前がいた方が早かったな」
柚木が瞬きをする。
「それ、褒めてる?」
「事実を言っただけだ」
「うわ。神崎に褒められた」
「撤回するぞ」
「もう遅いし」
柚木は水瀬たちの方を一度見た。
「でも、今日のうちにちゃんと戻ってよかった」
「そうだな」
教室ではもう、アトマイザーの話をしている声より、部活や帰り支度の音の方が多かった。事件が起きる前とまったく同じではない。それでも、明日また同じ教室へ来るには困らない。
今日は、それでいい。




