第25話 春陰の片隅と、忘れられた包み 3
水野の席までは、教室の半分もなかった。
「水野。ちょっといいか」
声をかけると、水野がプリントから顔を上げた。それから俺ではなく、少し後ろにいた水瀬の手を見る。
開かれたティッシュ。その中にある、小さな透明のアトマイザー。
水野の呼吸が一拍止まった。肩がわずかに固くなる。
それだけで何かを決めるつもりはなかった。
「ここだとちょっと目立つし、後ろ行こっか」
柚木が周囲を見て言った。教室にはまだ何人も残っている。四人で一つの席を囲めば、何も言わなくても視線は集まる。水野は少し迷ってから立ち上がった。
俺たちは共用棚の近くまで移動する。さっきまで探していた場所だ。水瀬の香水は、ティッシュに包み直されたアトマイザーからまだ薄く揮発していた。教室中に散った残り香より近く、輪郭がある。
でも今、確認したいのはそこじゃない。俺は水野を見た。
「これ、動かした?」
水野の目が下がる。
「……私、は」
そこで止まった。水瀬が口を開きかける。その前に、柚木が少しだけ声を落とした。
「水野さん。別に、盗ったって決めて聞いてるわけじゃないよ」
水野が顔を上げる。
「見つかった場所がここだったから、どうしてここに移ったのか知りたいだけ」
俺も頷いた。
「置いたかどうかと、盗ったかどうかは別だ」
沈黙が落ちた。
周囲では椅子を引く音や、誰かの笑い声が続いている。教室そのものは、何も止まっていない。水野だけがしばらく動かなかった。やがて、小さく息を吐く。
「……動かした」
水瀬の眉が動いた。
「私が、そこに置いた」
推測だったものが、一つだけ事実に変わった。
「なんで?」
水瀬が聞く。責めるような声ではなかった。ただ、遠回しにする気もないらしい。
水野はティッシュに包まれたアトマイザーを見たまま、ゆっくり話し始めた。
「あの日、水瀬さんが席を離れたあと……机のところ、すごく匂いがしてて」
一度言葉を切る。
「ポーチの辺り見たら、少し濡れてたから。中を見たら、それが漏れてて……キャップ、ちゃんと閉まってなかったみたいで」
水瀬が自分の手元を見る。
「それで?」
「締め直した。触ったら私の手にも付いちゃって、そのままだとまた漏れるかもしれないと思って……ティッシュで包んだ」
あの日、水野の手にあったティッシュ。水瀬の机の周辺へ偏って残っていた香料。水野本人に局所的に付いていた同じ香り。
白い包み。今まで別々に見えていたものが、同じ動作の中へ収まっていく。
「じゃあ、なんで棚に?」
水瀬が聞いた。水野の指が制服の裾をつまむ。
「図書委員の提出物」
柚木が先に気づいたらしい。水野が頷いた。
「そのあとすぐ持っていかないといけなくて。漏れてた物を一緒に持っていくのも変だし……戻ってきてから水瀬さんに言おうと思って、いったんそこに置いた」
水野が共用棚を見る。
「戻ってきた時に、言わなかったの?」
水瀬の声が少し低くなる。
「……忘れてた」
「忘れた?」
「ごめん。提出したあとも委員の作業があって、そのまま次のこと考えてて……」
水野は一度唇を閉じた。
「気づいた時には、もうみんな探してた」
そこから先は、少し間が長かった。
水瀬も急かさない。柚木は何も挟まない。俺も待った。嗅覚なら、待たなくても情報は入ってくる。でも今知りたいことは、勝手には入ってこない。
「最初は、言おうと思った」
水野が続けた。
「私が動かしたって。でも……誰かが盗ったんじゃないかって話になってて」
声が少しだけ細くなる。
「その時に言ったら、私が盗ったって思われるかもって……」
以前、水野へ聞いた時のことを思い出す。アトマイザーについて何か知らないか。
その問いに、水野は短く答えた。知らない、と。
「それで、知らないって言った?」
俺が聞くと、水野は頷いた。
「……うん」
「最初から隠すつもりだったわけじゃない?」
「違う」
今度は返事が早かった。
「本当に、戻ったら言うつもりだった。でも忘れて、それであんなことになって……今さら言ったら余計に変だと思って」
水野の説明は、そこで途切れた。水瀬が持っているアトマイザーへ視線が集まる。物の移動については、ほとんどつながった。
「盗難だったと考える理由は、もうないな」
水瀬が俺を見る。
「じゃあ、本当にただ動かしただけ?」
「漏れてたのを水野が処置して、ここに置いた。伝え忘れて、その間になくなったことになった」
「で、騒ぎになって言えなくなった」
柚木が静かに続けた。水野が小さく頷く。水瀬はしばらく何も言わなかった。
見つかったアトマイザーを指先で持ったまま、ティッシュの端を見ている。
「……そっか」
水瀬は、それ以上すぐには言葉を足さなかった。すぐに笑うわけでもない。水野へ「気にしないで」と言うわけでもない。
「水瀬さん、ごめん」
水野が言った。水瀬はすぐには返さなかった。柚木がその沈黙を埋めることもしない。
ただ、水野と水瀬を交互に見ていた。俺は少し離れた藤崎の席へ視線を向ける。
盗まれた物はなかった。それでも、一度向いた疑いまで棚に戻せるわけじゃない。




