第24話 春陰の片隅と、忘れられた包み 2
柚木は教室を見渡したまま、しばらく黙っていた。さっきまでなら、その沈黙を待つ理由はなかったかもしれない。でも今欲しいのは、俺の鼻で拾えるものじゃない。
「最後に使ったの、たぶんあの時だよね」
柚木が水瀬の机を指した。水瀬もそちらを見る。
「うん。藤崎さんが出たあと。私が一回使って、それからポーチに戻した」
そこまではさっき確認した。
「そのあと席、離れたよな」
「離れた。優花に呼ばれて――あ、でもすぐそこ」
水瀬が教室の反対側を示す。教室からは出ていない。俺は柚木を見る。
「その間、水瀬の机の近くにいたやつ」
「えーと……」
柚木の視線が、今度は机の列を順番にたどった。事件が起きる前の光景を、今の教室へ重ねているらしい。
「水野さん、いたと思う」
「水野?」
「うん。莉愛の席の横っていうか、そのへん。ずっとじゃないけど」
水瀬が眉を上げる。
「水野さん?」
声が少し大きい。俺は軽く手を上げた。
「まだ名前だけで反応するな」
「してないし」
している。ただ、水瀬もそれ以上は言わなかった。俺にも薄く残っている記憶がある。
あの時、水野はティッシュを手にしていた。
そのこと自体は何もおかしくなかった。教室で誰かがティッシュを使う。それだけなら、わざわざ覚えておくような出来事じゃない。
「水野、ティッシュ使ってなかったか」
「あ、使ってた」
柚木がすぐに返した。
「なんか取ってたよね。箱じゃなくて、自分のだったかな。そこまでは覚えてないけど」
「そのあと?」
「後ろ行ってた」
今度は俺も覚えていた。水野が教室後方へ動いたこと。そこからしばらくして、何かを持って教室を出たこと。
「提出物」
口にすると、柚木が「あ」と声を出した。
「そう。図書委員のやつ。水野さん、あの日出すって言ってた」
「職員室?」
「たぶんそっち。先生に出すやつだったはず」
水瀬が俺と柚木を交互に見る。
「待って。じゃあ水野さん、私の机の近くにいて、ティッシュ使って、後ろ行って、そのまま教室出たってこと?」
並べれば、そうなる。だからといって、答えになるわけじゃない。
「順番はたぶんそれで合ってる。ただ、それだけだ」
「でも前に聞いた時、知らないって言ってなかった?」
「言ってた」
水瀬が何か続ける前に、柚木が先に口を開いた。
「でも『知らない』だけじゃ、何を知らないって意味だったか分かんないよね」
俺は頷いた。アトマイザーそのものを知らない。なくなった経緯を知らない。
何か見たが、それが関係あるとは思っていない。あるいは、何か知っていて言わなかった。どれでも同じ言葉は出る。
「場所も分からない」
「場所?」
「水野の『知らない』から、アトマイザーがどこにあるかは出てこない」
水瀬が少しだけ不満そうな顔をした。
「神崎、今日ずっと慎重じゃない?」
「二回同じ間違いするよりマシだろ」
「それはそう」
納得は早かった。俺は水野の席へ視線だけを向ける。本人は少し離れたところで、机の上のプリントを見ていた。近寄る必要はない。
「水野が水瀬の机の近くにいた。そのあと後ろへ動いた。本人にも香りが付いてる。後ろにも残ってる」
柚木が俺の言葉を追うように後方を見た。
「それなら、水野さんが何か持って後ろ行った可能性はある?」
「上がる」
水瀬がすぐに身を乗り出す。
「じゃあ――」
「可能性が上がるだけだ」
「はいはい」
投げやりな返事だった。ただし今度は止まった。そこから先。
水野は教室後方へ行ったあと、図書委員の提出物を持って教室を出ている。仮に、水瀬の机付近で香水の付いた何かを扱ったとする。その何かがアトマイザーだったとしても、違う物だったとしても。委員の用事と関係ない物を、そのまま持って職員室側へ行く必要はない。
むしろ。
「教室を出る前に、置いた可能性はあるな」
「何を?」
水瀬が聞く。
「まだ何かは決めない。水野が机の近くで何かを一時的に扱ってたと仮定した場合の話」
柚木が後ろを見たまま言う。
「そのあとすぐ委員の用事なら、いったんどっか置いてから出た、とか?」
「ああ」
そこで初めて、見る場所ができた。教室後方。生徒が一時的に物を置いても不自然ではない場所。窓際でも床でもない。わざわざ隠す必要もない。
「後ろで、普通に物を置ける場所」
水瀬が振り返る。
「棚?」
教室後方には、教材や共有物が入った共用棚がある。誰かの私物を隠すための場所じゃない。だからこそ、短時間何かを置く場所としてはおかしくない。
俺は立ち上がった。
「そこだけ見る」
「そこだけ?」
「他を探す理由はまだない」
共用棚まで行く。近づくにつれて、さっき離れた場所から感じていたものが少しはっきりした。
水瀬の香水。空気の流れに乗って揺れる残香じゃない。この近くの何かに残っている。
ただ、それでも本体があるとは限らない。棚そのものに香りが移っただけかもしれないし、別の物に付いているだけかもしれない。俺は鼻より先に目を使った。
教科書の予備らしい冊子。紙の束。使いかけのファイル。
その間に、白いものがあった。ティッシュ。丸めて捨てられた形じゃない。何か小さい物を包むように畳まれている。
「これ」
後ろから来た水瀬へ示す。自分では触らない。水瀬が棚を覗き込み、眉を寄せた。
「なにこれ」
「分からない。お前の物なら、お前が見ろ」
「そういうとこだけちゃんとしてるよね」
どういうところだ。
水瀬は白い包みを手に取った。
ティッシュをゆっくり開く。
途中で動きが止まった。
「あ」
小さな透明の容器が見える。
水瀬の目が一気に開いた。
「これ、私の」
柚木が横から覗き込む。
「マジで?」
「うん。これ。なくなったやつ」
見つかった。
あれだけ教室の中で話が広がっていた物は、教室の外ですらなかった。
後方の共用棚。しかも、ティッシュに包まれて。水瀬はアトマイザーを持ったまま、棚と俺たちを見比べる。
「なんでこんなとこにあるの?」
それはまだ分からない。
でも、発見前と同じでもない。
ここまで来れば、水野の行動と今見つかった物を全部無関係として扱う方が難しい。
「水野が、このアトマイザーの移動に何か関わってる可能性はかなり高い」
水瀬が口を開く。
「じゃあ水野さんが――」
「そこから先はまだ」
俺は遮った。包んだのが水野か。ここへ置いたのが水野か。そもそも、なぜ触ったのか。盗るつもりだったのか。水野の『知らない』が何だったのか。
物が見つかっただけでは、その答えまでは出てこない。
柚木が少し考えてから言った。
「じゃあ、次は水野さん本人?」
「ああ」
もう鼻で探す物はない。今必要なのは、本人が何をしたのか。俺は水野のいる方を見る。
今度は、すぐには視線を外さなかった。物の場所は分かった。次に聞くべきことも、もう決まっていた。




