第23話 春陰の片隅と、忘れられた包み 1
授業が始まると、なくなったアトマイザーの話は一度教室の表面から消えた。教師が入ってきて、教科書が開かれる。さっきまで水瀬の机の周りに集まっていた連中も、それぞれの席へ戻った。
俺もノートを開いた。水瀬の香水は、時間が経った分だけ薄くなっていた。完全に消えたわけではない。机や人が動くたび、教室のあちこちから同じ香りが少しずつ立つ。
次のチャイムが鳴るまで、事件のことは考えなかった。
休み時間になってすぐ、水瀬がこっちへ来た。
「で、どうするの?」
「何が」
「何がじゃないでしょ。アトマイザー」
「まだ続けるのか」
「見つかってないんだから続くでしょ」
もっともだった。その後ろから柚木も来る。
「神崎、さっき見る場所変えるみたいな顔してたじゃん」
「どんな顔だよ」
「神崎の顔」
説明になっていない。ただ、今度は柚木の方が合っていた。
「水瀬。最後に使った時のこと確認したい」
「最後に?」
「ああ。使った場所と、そのあとどこに戻したか」
水瀬が自分の机を見る。
「ここ。さっき言ったじゃん。使って、ポーチに戻した」
「その時点では手元にあった?」
「あるよ。使ってるんだから」
「キャップは?」
「閉めた」
即答したあと、水瀬が少しだけ眉を寄せた。
「……と思う。いや、普通閉めるでしょ?」
「普通どうするかは聞いてない」
「めんどくさ」
「神崎、そういう聞き方すると事情聴取っぽいって」
柚木に言われた。別に取り調べているつもりはない。
「閉めた記憶があるのと、実際に完全に閉まってたかは別だ」
水瀬が口を開きかけて、止まる。
「それは……まあ、そうだけど」
十分だ。水瀬が閉めたつもりだった。そこから先は、まだ分からない。
俺は許可を取って、水瀬の机とポーチ周辺だけを見る。もう何度か近くにいるせいで、香水そのものは嫌でも分かる。
空気に残っている方は広い。ひと吹きした時に散ったものが、人の移動や空調に崩されながら薄く伸びている。
それとは別に、机とポーチの周辺には、狭い範囲だけ残り方の違う場所があった。空気中へ散った香りよりまとまっている。周囲全体が濃いわけではない。表面の一部へ寄るように残っていた。同じものを空中へ一度噴いただけなら、こういう偏り方はしにくい。
「……水瀬」
「なに?」
「使ったあと、少し漏れた可能性がある」
水瀬が目を瞬かせた。
「漏れた?」
「断定じゃない。噴いた香りだけでこの残り方になるより、液が少量どこかへ直接付いたと考えた方が自然ってだけ」
水瀬がポーチを見る。
「でも、私そんなの気づかなかったけど」
「少量なら気づかなかった可能性もある。逆に、別の理由で付いた可能性もある」
「じゃあ結局まだ分かんないじゃん」
「そうだな」
「そこ普通に認めるんだ」
さっきも似たようなことを言われた気がする。分からないものを分かったことにする方が面倒だ。柚木が机の横から覗き込む。
「でも、もし漏れてたならさ。なくなった理由も変わる?」
俺は少し考えた。そこにあった物が、あとでなくなった。今までは、その間に誰かが持っていった、という線を強く見ていた。
でも、使用後にアトマイザーの状態が変わっていたなら。
「盗るためじゃなく、動かされた可能性は出る」
「たとえば?」
「そこまではまだ知らない」
誰かが意図的に持ち去った。何かの理由で一時的に別の場所へ動かした。
それ以外。今ある情報だけなら、どれも消せない。
水瀬は納得しきっていない顔だったが、さっきまでみたいに誰かの名前は出さなかった。
俺も出す気はない。そこで、教室の中を誰かが横切った。水野だった。
自分の席へ戻る途中、机の間を抜けていく。その瞬間、周囲に薄く漂っているものとは違う形で、同じ香りが入ってきた。
水瀬の香水。教室中にある。それ自体は珍しくない。
ただ、水野が通り過ぎたあとまで同じ場所に残るものではなく、水野が動けば香りの位置も一緒に動いた。周囲の空気に漂っているだけじゃない。水野自身に付いている。
そこまでは分かる。俺は水野を見る。すぐに視線を外した。
いつ付いた。何に触れた。なぜ付いた。
その答えは、匂いの中にはない。藤崎のハンドクリームで、一度それをやったばかりだ。同じ失敗を二人目で繰り返す趣味はない。
「神崎?」
柚木が俺の視線に気づいた。
「水野にも付いてる」
声を落として言う。柚木の目が水野の方へ動きかけた。
「莉愛の香水?」
「ああ。ただし、それだけだ」
「それだけ?」
「水野に同じ香りが付いてる。それ以上は何も決まってない」
水瀬も聞いていたらしい。
「でも、それって――」
「水瀬」
途中で止める。
「藤崎の時と同じになるぞ」
「あ」
水瀬が口を閉じた。柚木も一度頷く。少し意識を教室の後ろへ向ける。
そこにも、空気に薄く混ざった残香とは別の残り方をしている場所があった。人が動いて空気が入れ替わっても、同じ位置からわずかに残る。何かに付いた香り。
「後ろにもある」
俺が言うと、柚木が振り返った。
「同じの?」
「ああ。空気に漂ってるだけじゃなくて、場所に残ってる」
水瀬が今度は何も言わなかった。少しは学習したらしい。俺も同じだ。
水野に付いた香り。教室の後ろに残った香り。どちらも水瀬のものだ。
だからこそ、それだけでは順番にならない。なら、必要なのは別の情報だ。
俺は柚木を見る。
「柚木」
「ん?」
「水瀬が最後に使ったあと、人がどう動いてたか覚えてるか」
柚木が少しだけ目を見開いた。
「人の動き?」
「ああ。誰が水瀬の机の近くにいて、そのあとどこへ行ったか。教室を出たやつがいたなら、それも」
柚木はすぐには答えなかった。代わりに、教室の中へ視線を巡らせる。
水瀬の席。通路。教室の後ろ。
さっき俺には取れなかった順番を、柚木は別の形で持っているかもしれない。
水瀬が最後に使ったあと、何が起きたのか。




