第22話 花曇りの昼下がりと、疑いの指先 4
予鈴が鳴り終わっても、柚木はポーチを見たままだった。水瀬が首を傾げる。
「何が?」
「んー……ちょっと待って」
柚木は片手を上げた。俺たちを止めるというより、自分の中で何かを並べ直しているように見える。さっきまでなら、こういう間があっても俺は特に気にしなかったと思う。
けれど今回は、柚木が俺に持ち込んだ話だ。決めつける前に見てほしい。そう言った本人が引っかかっているなら、聞く意味はある。
「何か思い出した?」
「たぶん。まだ繋がってないんだけど」
柚木が顔を上げた。それから、水瀬の机と、その向こうにある藤崎の席へ視線を動かす。
「美緒がここ来たのって、アトマイザーなくなる前だよね」
「そうだな」
「で、そのあと……」
柚木の目が細くなる。
「美緒、一回教室出てなかった?」
水瀬が瞬きをした。
俺は答えず、記憶を探る。藤崎が水瀬の机に来ていたことは覚えている。
けれど、その後どこへ行ったかまでは見ていなかった。そもそも普段、クラスの誰がいつ廊下へ出たかなんて数えていない。
「出てたよ」
水瀬が先に答えた。
「あれ、なんか用事あるって言ってなかった?」
「うん。だからあたしもそこまでは覚えてる」
柚木は頷いた。それだけなら、何も変わらない。
藤崎がここへ触れたあと教室を出た。それだけだ。
問題は、アトマイザーがその時どこにあったか分からないこと――。
「……待って」
今度は柚木自身が、自分の言葉を途中で止めた。
視線が水瀬へ向く。
「莉愛」
「なに?」
「美緒が教室出たあと、それ使ってなかった?」
柚木が机の上のポーチを指した。
水瀬はすぐには答えなかった。
「それって、アトマイザー?」
「うん」
「えー……」
眉を寄せて、少し上を見る。記憶を探している顔だった。俺は口を挟まない。
ここで俺が何か言えば、それに引っ張られる。数秒して、水瀬の表情が変わった。
「あ」
柚木も反応する。
「使った?」
「使った。うん、使ったわ」
水瀬がポーチへ手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「美緒がいなくなったあと?」
「たぶん……いや、そう。藤崎さんが出てって、そのあと。私、一回使ってる」
教室の音が少し遠くなった気がした。実際には何も静かになっていない。席へ戻る連中の声も、椅子を引く音も、廊下を歩く足音もそのままだ。
変わったのは、俺の中にあった順番だけだった。
藤崎が水瀬の机へ来る。ポーチの周辺へ触れる。ハンドクリームの痕跡が残る。
藤崎が教室を出る。
その後。
水瀬がアトマイザーを使う。
「……神崎?」
柚木に呼ばれて、顔を上げた。
「それ、確か?」
聞いたのは水瀬に対してだ。
「使ったこと?」
「ああ。藤崎が教室を出たあとに」
「うん。そこは大丈夫だと思う」
さっきまでより、声に迷いがない。柚木も頷く。
「あたしも見てた。別々に覚えてたから、今まで繋がってなかったけど」
「それなら、話が変わる」
水瀬がすぐに身を乗り出した。
「じゃあ藤崎さんじゃなくない?」
「今疑ってた根拠は崩れる」
「今疑ってた根拠?」
「藤崎がここに触って、その痕跡が残ってる。そこから、あの接触が紛失に関係してる可能性を上げた」
さっきまでの俺の考えだ。水瀬は少し考えてから言った。
「でも、そのあと私が使ってた」
「ああ」
俺は、時刻のない痕跡に、事件と関係する時間を重ねすぎた。足りなかったのは、匂いじゃない。時間だった。
「俺の見立てが悪かった」
水瀬が目を丸くした。
「え、そんな普通に言うんだ」
「間違ってたなら言うだろ」
「いや、そうなんだけど」
何を期待していたんだ。
隣で柚木が小さく笑った。
「神崎、そこは変に意地張らないよね」
「張る意味がない」
「じゃあ藤崎さん、疑わなくてよかったんじゃん」
水瀬が言う。その声は、さっきまでより明らかに軽い。
「少なくとも、今までの理由で疑う必要はない」
「まだ何かあるの?」
「藤崎がそのあと絶対に何もしてないってところまで確認したわけじゃない」
「細かっ」
「そこを雑にした結果が今だろ」
「それ言われると何も言えないんだけど」
水瀬が口を尖らせた。
その反応を横に置いて、俺は柚木を見る。
「柚木」
「ん?」
「今の、助かった」
一瞬だけ、柚木の反応が遅れた。
「……あたし?」
「俺には取れない情報だから」
誰の匂いが残っているか。何がそこへ触れたか。そういう物理的な痕跡なら、俺の方が拾える。
けれど、誰が教室を出たか。そのあと誰が何をしていたか。普段の教室の流れを、俺はそこまで見ていない。
柚木は見ていた。事件のためじゃない。普段から人を見て、誰がどこにいて、誰と話しているかを自然に拾っている。
しかも今回は、それ一つで俺の仮説が崩れた。補足じゃない。反証として使える。
柚木は少しだけ目を瞬かせたあと、いつもの調子に戻った。
「それ褒めてる?」
「褒めてる」
「神崎にしては分かりにくくない?」
「これ以上どうしろっていうんだ」
「もうちょいこう、あるじゃん」
「ない」
「即答やめて?」
水瀬が吹き出した。
「玲奈、そこ今やる?」
「いや、だって普通に気になるでしょ」
「気にならない」
「神崎には聞いてないから」
少しだけ、教室の空気が戻る。その向こうでは、藤崎も自分の席にいる。俺たちの話がどこまで聞こえているかは分からない。
今ここで、わざわざ全員に向かって何かを宣言する必要もないだろう。少なくとも、現在藤崎へ向けていた疑いを支えていたものはなくなった。それで十分だ。
教師が来る気配が廊下の向こうから近づいてくる。俺は自分の席へ戻りながら、頭の中の順番を一つだけ残した。
藤崎が教室を出たあと。水瀬はアトマイザーを使った。そこまでは確実だ。
なら。
なくなった理由を探すなら、見るべきなのはその前じゃない。その後だ。




