第21話 花曇りの昼下がりと、疑いの指先 3
俺が視線を向けると、水瀬は自分の机の横に掛けてある鞄を見た。
「私はいいよ。ていうか、分かるなら見てほしい」
「全部は見ない」
「え?」
「最後にアトマイザーを入れてた場所だけでいい。普段どこに置いてる?」
水瀬が鞄を開き、中からポーチを少し引き出した。
「これ。この中。朝は入ってたし、使ったあとも戻したと思う」
「探したのは?」
「ポーチの中と鞄の中。机の下も見た」
それなら十分だった。
「ポーチと、この周りだけ見る」
「うん」
水瀬が頷いたところで、廊下から足音が近づいてきた。ほぼ同時に予鈴が鳴る。
「……次、先生来るね」
柚木が時計を見た。
「休み時間でいい?」
俺は言った。急ぐ理由はない。というより、この状態で急いだ方が余計なものまで答えに見える。
水瀬も渋々という感じではあったが、ポーチを鞄へ戻した。
「分かった。じゃあ次ね」
その向こう。藤崎は自分の席に座っていた。誰かと話しているわけでもなく、机の上の教科書を開いている。
こちらを気にしていないようにも見えるし、気にしていて見ないようにしているだけにも見えた。そこは判断できない。少なくとも、今あるのは疑いだけだ。
だから確認する。
それだけでいい。
授業が始まった。
四十分ほどの間に、教室の空気は一度別のものになった。
教師の声。ページをめくる音。黒板を走るチョーク。窓際から入る外気。
その隙間に、まだ水瀬の香水が残っている。さっきより薄くはなっているが、消えたわけではない。
鼻の奥へ張りつく甘さから意識を外し、黒板へ目を戻した。四六時中、なくなった小瓶のことを考えているほど暇でもない。
次の休み時間。
教師が出ていくのを待ってから、水瀬がこちらを振り返った。
「神崎、今いい?」
「ああ」
机の周りにはまだ何人か残っていた。俺は一度だけそちらを見た。
「人、少し離して」
「あ、そっか」
柚木が先に動いた。
「ごめん、ちょっとだけここ空けてもらっていい?」
理由を大げさに説明することもなく、近くにいた連中を自然にずらす。こういうところは、俺よりずっと上手い。水瀬がポーチを机の上に置いた。
「これね」
「触っていい?」
「どうぞ」
俺はポーチを持ち上げず、机の表面、ポーチの外側、口の周辺、そのすぐそばだけを見る。息を浅く吸った。
最初に来るのは、やはり水瀬の香水だった。
強い。
ポーチそのものにも、机にも、制服にも同系統の香りがある。だから、それは追わない。探すのは別のものだ。
水瀬ではない誰かが、この場所へ触れた痕跡。数秒で切り上げるつもりだった。その途中で、一つ引っかかった。
香水の甘さとは違う。もっと低い位置に残る、油分を含んだ香料。
微量。それでも、覚えがある。
俺は一度顔を離した。
「神崎?」
柚木の声を聞きながら、もう一度だけ同じ範囲を確認する。
やっぱりある。
「……あった」
水瀬が身を乗り出しかけた。
「何が?」
「別の匂い」
「誰の?」
答える前に、頭の中でもう一度切り分ける。この匂いそのものに問題があるわけじゃない。少し前にも嗅いでいる。
藤崎が使っていたハンドクリーム。香水とは系統が違うから、水瀬の匂いに埋もれていても区別できる。
「藤崎のハンドクリームと同じだ」
水瀬の表情が止まった。柚木も一瞬、黙る。
「……藤崎さんの?」
「ああ」
「じゃあ、やっぱり藤崎さんが――」
「そこまでは分からない」
水瀬の言葉を途中で止めた。
「でも匂いあったんでしょ?」
「ある。だから分かるのは、藤崎がこの辺に触れたってことだけだ」
俺はポーチを指した。
「アトマイザー本体に触ったかは分からない。動かしたかも分からない。何のために触れたかも分からない」
一拍置いてから続ける。
「いつ付いたのかも分からない」
水瀬が少し眉を寄せた。
「でも、藤崎さん、今日ここ来てたじゃん」
「それはそう」
藤崎が水瀬の机へ来ていたのは事実だ。その時、この周辺へ手を置いた可能性もある。なら、今残っている痕跡はそれだけで説明できる。
「さっき普通の用事で触った時に付いた。それで終わりって可能性もある」
「じゃあ、結局分かんないってこと?」
「全部はな」
水瀬は露骨に納得していない顔をした。たぶん、白か黒かのどちらかを期待していたんだろう。残念ながら、匂いはそこまで便利じゃない。
それでも、何も分からなかったわけでもない。藤崎は今日、この場所へ来ている。そして実際に、藤崎の痕跡がここへ残っている。誰かの思い込みだけで生まれた疑いではなくなった。
考えられるのは、普通の用事で触れた痕跡が残っているだけか、その接触が紛失へ何らかの形で関係しているか。もちろん、その後に別の誰かが動かした可能性も残る。
問題は、痕跡に時刻が書いてないことだ。そこだけはどうにもならない。
「神崎は、どう思う?」
柚木が聞いた。俺は少し考えた。
藤崎が今日ここへ来たという話、現在藤崎へ向いている疑い、そして今実際に確認できた痕跡。三つが同じ場所で重なっている。
無関係な接触だけで全部説明できる。それは分かっている。けれど、何もなかった時よりは違う。
「藤崎が紛失に関わってる可能性は、さっきより上がったと思う」
水瀬が小さく息を吐いた。
「やっぱそうだよね」
「可能性が上がっただけだ」
念を押す。
「藤崎が盗ったって意味じゃない」
「分かってるって」
そう答えた水瀬の声は、さっきより少しだけ硬かった。たぶん完全には同じ意味で受け取っていない。けれど、それ以上言葉を重ねても仕方がない。
確定したものと、していないものは分けた。少なくとも俺は、そのつもりだった。
「柚木?」
水瀬が呼ぶ。柚木だけが、返事をしなかった。机の上のポーチを見たまま、少し眉を寄せている。
「どうした?」
俺が聞くと、柚木は顔を上げた。
「ううん」
一度そう言ってから、視線がまたポーチへ戻る。
「……なんか」
そこで次の予鈴が鳴った。柚木はその音にもすぐ反応しなかった。
「なんか、引っかかる」




