第20話 花曇りの昼下がりと、疑いの指先 2
「藤崎さん、さっき水瀬さんの机のとこ来てたよね?」
誰かがそう言った。それをきっかけに、さっきまで散らばっていた話が、一つの方向へ寄り始めた。
「うん。見た」
「私も。机の近くにいたと思う」
「何か触ってなかった?」
「そこまでは見てないけど」
二年三組には、まだ昼休みの名残が残っている。昼休みの匂いと人の熱。その空気に、水瀬の香水が混じっていた。少し前に本人が使っていたものだ。今も水瀬の身体や机の周りだけじゃなく、近くの空気や通路、周囲の物にまで同じ系統の香りが薄く残っている。肝心のアトマイザーだけがない。
「でも、あのあと見てないんでしょ?」
「うん」
水瀬が机の中をもう一度確認しながら答えた。声には苛立ちが混ざっていた。なくした物を探しているなら、普通の範囲だ。
「じゃあ藤崎さんが――」
「待って」
柚木が割って入った。強い声ではない。それでも、言いかけた女子は口を閉じた。
「美緒がここにいたのは分かったけど、それだけでしょ?」
「でもタイミング的にさ」
「触ってるところ見た人いる?」
少し間が空いた。
「……そこまでは」
「私も、いたの見ただけ」
一つずつ拾い直せば、残るものは少ない。藤崎が水瀬の机の近くにいた。机に触れていたところを見た人間はいない。その後、アトマイザーがなくなった。
並べれば、それらしい話にはなる。ただ、並んでいることと、つながっていることは別だ。教室の空気は、そういう区別をあまり待ってくれないらしい。
予鈴が鳴った。
「とりあえず授業。あとでまた探そ」
柚木がそう言って、話はいったん切れた。切れただけで、消えはしなかった。次の休み時間には、藤崎の名前を聞く回数が増えていた。誰かが断定しているわけじゃない。
「そういえば」
「もしかして」
「でも藤崎さん、あそこにいたし」
そんな言葉ばかりだった。だから余計に厄介だった。責任を取るほど強くは言わないくせに、向かう方向だけは揃っていく。藤崎が教室へ戻ってきたところで、水瀬が声をかけた。
「藤崎さん、ちょっといい?」
「ん?」
藤崎が足を止める。周りにいた何人かが、露骨ではない程度にこちらを見た。
「私のアトマイザー、見なかった?」
「アトマイザー?」
「香水入れてた小さいやつ。さっきまであったんだけど、なくなってて」
藤崎は少し考えてから首を振った。
「見てないけど」
「今日、私の机のとこ来てたよね?」
そこで、藤崎の表情が変わった。驚いたというより、その質問が何につながっているのか理解した顔だった。
「来たよ」
否定しない。
「机にも触ったと思う。でも、それだけ」
「そのときは見なかった?」
「見てない」
返事が少し硬くなる。藤崎は周囲へ視線を向けた。
「……何。私が持ってったって話になってるの?」
「まだ決まってないでしょ」
水瀬より先に、柚木が答えた。藤崎がそちらを見る。
「今、見た人に聞いてるだけ。美緒が机の近くにいたって話が出たから確認しただけだよ」
「だったらいいけど」
よくはなさそうな声だった。それでも、それ以上は何も言わず自分の席へ戻っていく。藤崎が水瀬の机の近くにいたことと、藤崎がアトマイザーを持っていったこと。
今ある情報では、その間に橋がない。授業を一つ挟んでも、アトマイザーは見つからなかった。柚木と水瀬は、休み時間になるたびに机の周辺や鞄を確認し、近くにいた連中へ聞いていた。
「水瀬の机の辺りで、何か見なかった?」
「知らないなあ」
「誰か来てたとかでもいいんだけど」
「あ、藤崎さん以外?」
「うん。それ以外も」
柚木はちゃんと範囲を広げている。藤崎だけを追えば、それ自体が答えを決める行為になると気づいたらしい。俺は自分の席からそのやり取りを眺めていた。今のところ参加する理由はない。面倒事は、遠い方がいい。
「水野さんは?」
女子の一人が教室の後ろを見た。
「さっき途中で出てなかった?」
「ああ、図書委員のやつ」
別のやつが答える。
「提出する紙持ってたよ。職員室の方じゃない?」
水野。
少し前にも、何枚かの紙をまとめて持っていた。言われてみれば、途中で教室からいなくなっている時間がある。ただ、それは図書委員の提出物を持って職員室側へ行っただけだ。今のところ事件との接点はない。しばらくして水野が戻ってくると、柚木が声をかけた。
「水野さん、ちょっと聞いていい?」
「うん」
「水瀬の香水、なくなっちゃったみたいで。この辺で何か見なかった?」
水野の返事は、すぐには来なかった。
ほんの一拍。
抱えていたノートの端を、指が押さえ直す。
「……知らない」
それだけだった。
「そっか。ありがと」
柚木も、それ以上は追わない。水野は自分の席へ戻っていった。俺はその背中を見送る。返事の間。指先。呼吸も、わずかに浅かった気がする。ただ、それだけだ。
自分のクラスで物がなくなって、誰かが盗ったかもしれないという空気になっている。その中で突然質問されれば、緊張する理由なんていくらでもある。
発汗していれば嘘。
返事が遅ければ犯人。
そんな便利な世界なら、たぶん俺ももう少し楽に生きている。
午後が進むにつれて、水瀬の香水は少しずつ薄くなっていった。
それでも、消えたわけじゃない。水瀬本人と机、その周辺。近くを通った人間の衣服や、紙や鞄の表面。同じ香りが、強弱を変えながらあちこちに残っている。
情報は多い。ただ、多いことと、使えることは別だった。今の教室で香水の匂いだけを追っても、それが何を意味するのかまでは決まらない。放課後が近づいた頃、柚木が俺の席へ来た。
「神崎、ちょっといい?」
嫌な予感がした。
「内容による」
「そう言うと思った」
なら聞くな。
柚木は俺の机の横に立ったまま、少し声を落とした。
「美緒のことなんだけど」
「犯人当てならやらないぞ」
「違う」
即答だった。
「むしろ逆」
「逆?」
柚木が一度、教室を見た。水瀬はまだ友人と机の周りを探している。藤崎は自分の席にいる。誰も直接何かを言ってはいない。それでも、空気だけならまだ藤崎の方へ傾いていた。
「このままだとさ、美緒がやったって雰囲気になりそうで」
「なってるな」
「だよね」
柚木が小さく息を吐いた。
「でも、あたしたちが分かってるのって、美緒が机のとこにいたことだけでしょ?」
「今のところは」
「本人も違うって言ってるし。だから……」
一拍置く。
「決めつける前に、神崎が分かる範囲だけ見てもらえない?」
俺は柚木を見る。
「藤崎が犯人か調べろってことじゃないんだな」
「うん。誰かを犯人にしてほしいんじゃない」
答えは早かった。
「あたしが聞いて分かること、もうこれ以上あんまりないから。神崎なら、別のこと分かるかもしれないでしょ?」
最初に会った頃なら、こういう頼み方にはならなかった気がする。俺に何ができるかだけじゃない。何をさせるべきじゃないかまで含めて話している。
「一応言っとくけど」
俺は教室を見回した。
「香水の匂いを追えば見つかる、みたいなのは無理だぞ」
「鼻でも?」
「鼻だからこそだ」
柚木が首を傾げる。
「水瀬の香水、今この教室のあちこちにある」
「え?」
「本人にも机にも付いてる。近くの物にも、人にも。濃いところを順番に追ったって、それがアトマイザーの通った順番とは限らない」
「そっか……」
「全員と、その持ち物を順番に嗅いで回ることはできるけど」
「できるんだ」
「俺の鼻より先に社会性が死ぬ」
「それはやめよ」
そこは即決らしい。柚木は少し考えた。
「じゃあ、何もできない?」
「そうは言ってない」
全部を見るから意味がなくなる。必要なのは、先に範囲を狭めることだ。
「最後に確実にあった場所は?」
「水瀬の席。使ったあと、ポーチに戻したって」
「なら、まずそこだろ」
俺は水瀬の机を見る。
「机とポーチの周り。見るならそこだけ。何か残ってれば、確認できる可能性はある」
柚木の顔が少し上がった。
「見てもらえる?」
面倒ではある。
今でも十分に。
ただ、柚木は自分で探して、聞いて、藤崎への流れを止めて、それでも足りないから俺のところへ来た。そこまでされて、何もせず帰るほどでもなかった。
「水瀬の私物だ。本人の許可は取れよ」
「うん」
「それなら見る」
柚木の肩から、少しだけ力が抜けた。
「ありがと」
答えを出したわけでもない。それでも、誰が怪しいかを増やすよりはましだ。
確かめられるところだけ、確かめる。面倒事は相変わらず面倒だった。見る場所だけは決まった。




