第19話 花曇りの昼下がりと、疑いの指先 1
月曜の昼休みは、金曜までのことを思ったより簡単に薄めていく。
二年三組には昼休みの匂いと人の熱が混ざっていた。休み明けだからといって特別うるさいわけでもない。いつもの人数が、いつものように喋っている。
俺としては、それで十分だった。
「ねえ、それ今日出すんだっけ?」
少し離れたところで、水瀬が藤崎の持っている紙を指した。
「ううん、次の授業。水瀬さんも持ってるでしょ」
「あ、そっちか。じゃあまだいいや」
「忘れないでよ」
「忘れないって」
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
数日前に一度、小さく噛み合わなかったことはある。それでも、今のやり取りに引っかかるものはない。水瀬が言ったことに藤崎が返し、藤崎が返せば水瀬もそのまま受け取っている。
前なら、その間に柚木が一度くらい空気を整えていた。今日は近くにいても、何もしない。藤崎は自分の席へ戻り、水瀬も別の話へ移る。終わった話を、わざわざ続ける理由もない。
「神崎、今日めっちゃ静かじゃん」
その柚木がこっちを見る。
「昼休みに騒ぐ理由がない」
「いや、神崎が騒いでるとこ見たことないけど」
「じゃあ聞くな」
「そう返すと思った」
笑って、水瀬の方へ向き直る。
何も起きていない昼休みは、だいたいこんなものだ。チャイムまで少しというところで、机の上に次の授業の準備を出すやつが増え始めた。俺も教科書を引き出しから出す。
その途中、藤崎がまた水瀬の席へ寄った。
「水瀬さん、これってこっちで合ってる?」
「ん? あー、そっち。そこ一個飛ばす」
「危な。ありがと」
机に片手をついて、藤崎が水瀬の見ていた紙を覗き込む。指先が机の端を滑り、紙を押さえる。
近くを通った時、藤崎がいつも使っているハンドクリームの匂いが薄く残った。前にも嗅いだことがある。本人が触れた机の端にも、ごくわずかに同じものが移っている。
香水ほど広がらないし、本人が今そこにいた以上、不思議でもない。
藤崎は用事を終えると、自分の席へ戻った。しばらくして、教室の外へ出ていった。俺はその間に教科書のページを確認して、机の端へ置く。
次の授業まで、あと数分。
その数分で、水瀬が余計なことをした。
「あ、そうだ」
ポーチを開き、小さなアトマイザーを取り出す。嫌な予感がした時には遅かった。水瀬がひと吹きした。
香料が一気に空気へ広がる。
「……おい」
反射的に顔を背けた。
鼻の奥へまとまって入ってくる。何の感情がどうとか、そんな話じゃない。ただ単純に濃い。
俺は椅子ごと半歩分、机から距離を取った。
「え、神崎そこまで?」
「今ここで使う必要あったか?」
「ごめん。でも一回だけじゃん」
「俺には回数の問題じゃない」
「あー……そっか。ごめん」
水瀬は素直にアトマイザーを下ろした。
「だから神崎の近くで香水系使う時は気をつけた方がいいって」
柚木が笑いながら言う。
「玲奈、それ先に言ってよ」
「今言ったじゃん」
「使った後!」
「次から次から」
水瀬が不満そうに口を尖らせながら、アトマイザーをポーチのあたりへ戻した。藤崎の席は空いたままだった。俺はまだ残っている香料を避けるように、なるべく浅く息を吸う。
水瀬はいつの間にか席を離れて、柚木と教室の前の方で何か話していた。視界の端で、水野がその席の近くで一度足を止める。そっちを見るより先に、前の席の男子が窓際から戻ってきて視界を塞いだ。机が鳴り、誰かが椅子を引き、別のやつが廊下から駆け込んでくる。
香料はまだ残っている。俺にとっては、そっちの方がよほど重要だった。
少しして、水野がティッシュを一枚抜くのが見えた。その向こうでは、別の生徒が筆箱を落として中身を散らしている。前では柚木が水瀬に何か言って、水瀬がすぐ言い返していた。俺は教科書へ視線を戻した。チャイムが鳴る直前には、教室の後ろへ向かう生徒が何人かいた。水野もその中に混じっていた。それから授業が始まった。
授業が一つ終われば、昼休みの机の上がどうなっていたかなんて、普通は気にしない。
チャイムが鳴る。休み時間になった途端、教室はまた動き出した。
「玲奈、ちょっと見て」
水瀬の声がした。いつもの調子より少し低い。柚木が振り返る。
「なに?」
「ないんだけど」
「何が?」
「これ」
水瀬は開いたポーチを見せた。
柚木が中を覗く。
「……何?」
「アトマイザー。さっき使ったやつ」
水瀬はすぐに机の上を見た。教科書の下、筆箱の横。次にポーチの中身をいくつか出し、鞄へ手を入れる。
動きがだんだん速くなる。
「机の中は?」
「見た。ない」
「鞄の横とか」
「そこも」
柚木もしゃがんで、机の脚の周りを見る。俺は二人を眺めながら、さっき教室いっぱいに広がった香料を思い出した。持ってきていなかった、はない。
少なくとも昼休みの終わりには、水瀬自身がここで使っている。
「神崎、見てない?」
水瀬がこっちを向いた。
「使ったところまでは見た」
「だよね。私も使ったの覚えてるし」
「その後は知らない」
「そっか」
水瀬はすぐ別の机の下へ視線を移した。疑われたわけでもないし、答えもそれで終わる。
「誰か見なかった? ちっちゃいアトマイザー。私の机のとこに置いてたんだけど」
今度は周りへ向けて聞く。
声をかけられたやつだけでなく、何人かがつられて机の周りを見た。椅子を引くやつ、足元を覗くやつ、隣の机へ紛れ込んでいないか確認するやつ。
近くの何人かが首を振った。
「落としたんじゃない?」
「だから見てるって」
「廊下とかは?」
「まだ見てない。あとで見る」
苛立ってはいるが、誰かを責める調子ではない。ただ、あったはずのものがない。それが気に入らないらしい。
教室の後ろで紙を揃える音がした。見ると、水野が何枚かの提出物を抱えていた。誰かに小さく道を譲って、そのまま教室を出ていく。俺は視線を水瀬の方へ戻した。
「さっきまであったんだよね?」
誰かが確認する。
「あった。昼休みの終わりに使ったもん」
「じゃあ、この教室のどっかじゃない?」
「だと思うんだけど……」
水瀬が机の上をもう一度見回す。
その時だった。
「そういえば、藤崎さんここ来てなかった?」
近くの女子が言った。水瀬の手が止まる。
「あ」
短い声。
「藤崎さん、さっきここ来てた」
教室の空気が、ほんの少し変わった。誰もまだ美緒が盗ったとは言っていない。それでも、名前が出たことで、ただの探し物に人の顔がついた。
「机のとこ、触ってたよね?」
「触ってたっていうか、普通にここ見てただけだけど」
水瀬自身がそう返した。ただ、その声にはさっきまでと違う硬さが混じる。
「でも近くにはいたよね」
別の声が重なった。柚木が顔を上げる。笑ってはいなかった。
「いや、それだけで決めるのは違くない?」
「決めてないって。そういえばって話」
「ならいいけど」
柚木はそれ以上言わなかった。俺も口を挟まない。なくなったのは事実だ。藤崎が水瀬の机の近くにいたのも事実だ。今あるのは、それだけだった。
それなのに、教室の中では、その二つの間に一本の線が引かれかけていた。




