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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
春の匂いと、香水の鎧

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第18話 春昼のざわめきと、ほどけない強がり 6

「助かったー、柚木さん! ほんとありがとう!」


 旧校舎へ戻る途中、二階の廊下で聞き慣れた名前がした。少し先に、柚木がいる。数人の女子に囲まれて、何枚かの紙を手渡していた。


「全然いいって。これくらいならすぐ終わるし」


 いつもの声だった。明るくて、軽くて、相手に余計な気を遣わせない。


「じゃ、また月曜ねー」


 手を振る。向こうも手を振り返して、階段の方へ消えていった。柚木はそれを見送ったまま、二秒くらい動かなかった。それから腕を下ろす。


 肩も、少しだけ下がった。


 近くまで来れば、甘い香りの奥にいつもより強い汗が混じっている。体温も高めだ。さっきまで動いていたせいだけではなさそうだが、それ以上は分からない。


 少なくとも、元気いっぱいという顔ではなかった。


「お疲れ」


 声をかけると、柚木が振り向いた。


「あ、神崎。まだいたんだ」

「お前もな」

「あたしは今ので終わり。今日の仕事、全部しゅーりょー」


 両腕を軽く上げる。言葉のわりに、解放された人間の動きには見えなかった。


「そっちは?」

「戻るところ」

「部室?」

「作法室」

「あー」


 柚木は一度、昇降口へ続く廊下を見た。そのまま帰るなら逆方向だ。けれど、数秒後には俺の隣へ並んでいた。


「じゃ、あたしも行こっかな」


 理由は聞かなかった。別に、来るのに理由が必要な場所でもない。旧校舎の奥まで行って引き戸を開けると、いつもの静かな空気が流れてきた。


 水屋には澄。畳の上では桜小路先輩が本を開いていて、星野がその横から覗き込んでいる。少し前までなら、俺と澄と桜小路先輩くらいしかいなかった場所だ。最近は、この景色にも慣れてきた。


「ただいま」

「おかえり、慧くん」


 澄が顔を上げる。その後ろから入ってきた柚木にも、同じ調子で視線を向けた。


「こんにちは」

「やっほー。お邪魔しまーす」


 星野が顔を上げ、桜小路先輩も本から視線を外す。二人とも、柚木が来たこと自体にはもう驚かなかった。柚木は入口で靴を揃えると、部屋の中を一度見回した。


「なんかやることあります?」


 あまりに自然な一言だった。澄が瞬きをする。俺は座布団へ腰を下ろしながら答えた。


「ない」

「……ない?」

「ない」

「え、ほんとに? 片付けとか」

「まだ散らかってない」

「お茶とかは?」

「もう淹れるところだよ」


 澄が急須へ湯を注ぎながら言う。柚木の視線が、今度は桜小路先輩と星野へ向いた。


「今日は特にありませんよ」


 桜小路先輩が穏やかに言った。そもそも、今日は何か大掛かりなことをしているわけじゃない。桜小路先輩は本を読んでいただけで、星野はそれに付き合っていただけだ。俺はいつも通り何もしていない。


「……マジでないじゃん」

「最初からそう言ってる」

「いや、なんかあると思うじゃん。部活なんだし」

「香道部に何を期待してるんだ」

「活動」

「してるだろ。たぶん」

「たぶんなんだ」


 柚木が笑う。いつもの笑い方より、少しだけ音が小さかった。「ここ、どうぞ」


 澄が俺の斜め向かいへ座布団を置いた。柚木はそれを見て、また一瞬止まる。


「え、座ってていいの?」

「うん」


 澄は湯呑みを一つ増やし、柚木の前へ置く。何かを頼むでもなく、代わりに何かを求めるでもなく。柚木は座布団へ腰を下ろした。


「なんか変な感じ」

「何が」

「いや……なんでもない」


 湯呑みを両手で持つ。そこには踏み込まなかった。しばらくは普通に話していた。星野が宿題の多さを嘆き、桜小路先輩が、今日のうちに少し進めておけば週末が楽になると返す。


「それができる人って、そもそも宿題の量に文句言わないと思いますよ」


 柚木がすぐに星野側へ回った。


「ですよね!」

「そこは意気投合するところなのでしょうか」


 桜小路先輩が少し困ったように笑う。


「大丈夫ですよ。期限前日に泣きながらやるのも青春なんで」

「おすすめできる青春ではありませんね」

「真面目ですねー」


 柚木の声はいつもの調子に戻っていた。ただ、いつもみたいに会話の真ん中へ立ち続けてはいない。星野が喋れば聞く。桜小路先輩が返せば笑う。自分から次の話題を投げる回数は、少しずつ減っていった。


 やがて宿題の話も終わった。誰かが次を始めるでもなく、会話が途切れる。水屋で湯の落ちる音がした。桜小路先輩が本のページをめくる。星野はさっきまで覗いていた本から離れて、自分の湯呑みに手を伸ばした。


 俺も茶を飲む。柚木が一度、息を吸った。何か言う時の呼吸だった。視線が俺たちの間を動く。けれど、口は開かなかった。そのまま湯呑みへ目を落とす。


 誰も代わりに喋らない。だからといって、気まずくもならなかった。ここでは元々、沈黙の方が多い。香炉も、湯気も、本も、別に会話を要求しない。柚木も、しばらくすると何も探さなくなった。背筋から少し力が抜ける。湯呑みを持っていた手も畳へ下りた。


 疲れている。そこまでは分かる。呼吸の浅さも、いつもより高い体温も、甘い香りの奥に混じった汗も、全部それを示していた。少し質問すれば、何かは出てくるかもしれない。でも、柚木は黙っている。俺は茶を飲んだ。


「神崎」

「ん?」

「……いや、やっぱいい」

「そうか」


 柚木の口元が緩んだ。柚木はそれ以上続けなかった。また静かになる。今度は、柚木も埋めようとしなかった。気づけば窓から入る光が少し傾いていた。澄が二度目の湯を足し、星野と桜小路先輩は途中から別々のことを始めていた。俺も壁にもたれて本を読む。柚木は何をするでもなく、時々茶を飲んでいた。途中で一度スマホを確認したが、すぐに伏せた。それからは、本当に何もしなかった。


 誰も困らなかった。


「そろそろ帰ろっかな」


 柚木がそう言った頃には、入ってきてから一時間近く経っていた。星野と桜小路先輩も帰り支度を始める。柚木は立ち上がると、反射的に自分の湯呑みへ手を伸ばした。


「あ、それ置いてて大丈夫だよ」


 澄が水屋から言う。


「でも」

「あとでまとめて片付けるから」

「……そっか」


 柚木の手が止まる。一瞬だけ迷ってから、湯呑みをそのまま置いた。鞄を肩に掛け、引き戸の前まで行く。


 そこで振り返った。


「今日さ」

「ん?」

「あたし、ほんと何もしてなくない?」

「してないな」

「そこ普通は否定するとこでしょ」

「事実だろ」

「ひど」


 言いながら、柚木は笑った。今度の笑い方は、さっきよりずっと小さい。でも、それで不自然には見えなかった。


「じゃ、また月曜」

「おう」

「またね」


 澄が手を振る。星野と桜小路先輩も続く。柚木はいつもの調子で手を上げて、今度こそ廊下へ出ていった。


 今日は、何も持ち込まなかった。相談も、面倒事も、解くべき嘘も。空になった湯呑みを一つ残して帰っただけだ。それでも、また来るらしい。なら、別にそれでいい。

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