第17話 春昼のざわめきと、ほどけない強がり 5
またやってる。
乾いたホチキスの音が、朝の教室に小さく響いた。柚木は自分の席ではなく、教卓の横に立っている。机の上には提出物が三つの山に分けられていて、その一つを揃えて留め直しているところだった。
「それ、柚木の仕事か?」
鞄を机に置きながら聞くと、柚木が顔を上げる。
「んー? 違うよ」
違うのかよ。
「今日、担当の子休みじゃん? このままだと提出するやつと返すやつ混ざりそうだったから。ちょっと分けてるだけ」
言いながら、また一枚抜き取る。
「あ、これ名前ない」
近くにいた女子が覗き込み、「うわ、ほんとだ」と声を上げた。
「昨日まとめたとき気づかなかった」
「いいっていいって。まだ朝だし」
柚木は笑って、名前のない紙を別の山に置いた。頼まれたわけでもない。このままだと後で面倒になると気づいて、先に手を出している。最近、こういうのをよく見る。
「お、玲奈ありがとー」
教室へ入ってきた男子が、仕分けられた紙を見て声をかけた。
「今日これ先生に持ってくやつだよな?」
「そうそう。そっちは返却分ね」
「マジ助かる」
「はいはい。次からちゃんと分けときなー?」
軽口を返す声は明るい。嫌そうには見えない。だから余計に面倒だった。
一時間目が終わると、柚木は職員室へ紙を持っていった。二時間目の後は、廊下で呼び止められていた。「玲奈、これさ、変じゃない?」
見せられていたのは、何かの告知文らしい。
「んー……『ぜひご参加ください』が二回あるから、こっち削った方がよくない?」
「あ、ほんとだ」
「あとここ、改行した方が見やすいかも」
「さすが。ありがと!」
「これくらいなら全然」
チャイムが鳴る少し前に戻ってきて、何事もなかったように席へ着く。昼前には、購買の近くで一年らしい女子に何かを説明していた。昼休みになって教室へ戻ると、今度は別の紙を手にしていた。俺がパンの袋を開ける頃、柚木の机の上にも購買の袋が置かれていた。
十分後。まだ置かれている。その前で柚木は、隣の席の女子と提出物を見比べていた。
「じゃあ、こっちだけ今日出せばいいんだ?」
「たぶんね。でも念のため先生に聞いた方がいいかも」
「一緒に来てくれない?」
「いいよ。食べてからでいい?」
「もちろん!」
それでようやく袋へ手を伸ばした。パンを一口かじったところで、また声が飛ぶ。
「玲奈ー、ちょっといい?」
柚木の手が止まる。
「なにー?」
立つ。パンは机に残った。一つ一つは数分で終わる。それが一日分、積み上がっていた。
午後になっても変わらない。授業の合間、柚木は自分のノートを整理しかけて、別の女子にプリントを差し出された。
「ごめん、ここだけ合ってるか見てもらっていい?」
「ん、どこ?」
自分のノートを閉じる。確認は二分もかからなかった。けれど閉じたノートは、次の授業が始まるまで開かれなかった。
体育の後もそうだった。教室へ戻ってきた連中が水を飲んだり、窓際でだらけたりしている中、柚木は来週の提出物について誰かと話している。
声はいつも通り。笑い方も変わらない。席へ戻った瞬間だけ、肩がわずかに落ちた。
次に呼ばれたときには、もう戻っていた。体育の後なら汗も体温も当てにならない。柚木は昼をろくに取れていない。午後に入ってから呼吸も少し浅い。話しかけられてから返事をするまでの間も、朝よりわずかに長くなっている。疲れているのは確かだ。
けれど、嫌々やっているのか、断れなくて困っているのかまでは分からない。
放課後直前。終礼を待つ教室で、柚木の前にまた一人来た。
「玲奈、今日このあと時間ある?」
「ん?」
「委員の集計、ちょっとだけ手伝ってほしくて。数字合わなくてさ」
「あー、いい――」
「今日はやめとけ」
自分でも、思ったより早く口が出た。二人ともこっちを見る。
「え?」
頼みに来た女子が困ったように瞬きをした。俺は柚木を見る。
「今日はもうやってるだろ」
「いや、でもこれくらい――」
「明日でもいいなら明日にしろ」
「あ、うん。全然明日でいいよ」
頼んだ本人があっさり引いた。
「ごめんね玲奈。今日忙しかった?」
「いや、そういうわけじゃ――」
「じゃ、明日お願いしてもいい?」
「うん。それなら」
「ありがと!」
女子はそれだけ言って自分の席へ戻った。
揉めない。押しつけてもこない。柚木が断れば、それで済む。少なくとも今の一件は。
「……神崎」
「なんだ」
「最近ちょっとあたしに厳しくない?」
「そうか?」
「そうだよ。今の、あたしまだ何も言ってないじゃん」
「言いかけてた」
「いいって?」
「そう」
柚木は口を尖らせた。
「聞こえてないのに」
「聞こえるところまで言ってただろ」
「細か」
そのまま終礼が始まった。けれど柚木は、いつものように誰かと喋るでもなく、机の中を片付けていた。
終礼が終わる。教室から人が減っていく。柚木はまだ席にいた。俺もすぐには立たなかった。机の横には、今日持っていくつもりらしい紙の束がある。
「柚木」
「なに?」
「疲れてるだろ」
「えー?」
軽い声。反射みたいなものだった。
「このくらい平気だって」
「平気かどうかは聞いてない」
柚木が黙る。
「昼まともに食ってない。午後から呼吸も浅い。体育の後、座ったときだけ肩落ちてた」
「……見すぎじゃない?」
「見なくても分かる」
「それ、神崎しか言えないやつだからね?」
「じゃあ疲れてないのか」
柚木の口が止まった。すぐに否定は返ってこない。視線だけが少し横へ逃げる。
「……まあ」
「まあ?」
「ちょっとはね」
やっぱり。
「なら断ればいい」
言ってから、たぶん一番簡単な答えだと思った。疲れるほど受ける。なら、受ける量を減らせばいい。さっきだって、それで済んだ。柚木なら断り方くらい分かる。人間関係を壊さずに断る方法なんて、俺よりよほど知っているはずだ。なのに柚木は、すぐには答えなかった。机の上に置いた指先を見ている。それから、小さく言った。
「嫌じゃないし」
「……何が」
「頼られるの」
顔を上げる。
今度の笑い方は、教室の真ん中で見せるものよりずっと薄かった。
「別に、ほんとに嫌じゃないんだよ。あたしがちょっとやれば済むなら、それで楽になる人いるじゃん」
「……」
「今日のだって、全部そんな大変なやつじゃなかったし。紙分けるのも、文章見るのも、先生んとこ行くのも」
「積み上がって疲れてるけどな」
「それはまあ……結果的に?」
「結果がそれなら同じだろ」
「でも、嫌なこと無理やりやらされてるわけじゃないし」
少なくとも、無理やりやらされているようには見えない。
だから厄介だった。
「それ、断る基準になってないだろ」
「え?」
「嫌じゃなきゃ全部やるのか」
「全部ってわけじゃないけど」
「今日ほぼ全部やってる」
「ほぼは盛ってない?」
「朝から数えようか?」
「やめて。絶対覚えてる顔してる」
「覚えてる」
「ほら!」
声を上げたあと、そのまま笑って話を流そうとする。俺は笑わなかった。少しして、その笑いが消える。
「お前ができることと、お前がやることは別だろ」
「……」
「できるからって毎回やってたら、空いてる時間から先に消える」
柚木は何も返さない。
「昼飯も後回し。自分のノートも後回し。休む時間も後回し。それでまだ『できる』扱いなのか」
言いすぎたかと思った。でも、否定はしなかった。柚木は机の上の紙へ視線を落としたまま、指先で端を揃えている。
「神崎ってさ」
「何」
「こういうとき、ほんっと逃がしてくれないよね」
「逃げたいなら逃げればいいだろ」
「そういう意味じゃないし」
少しだけ口元が緩む。けれど、さっきまでみたいに話を逸らそうとはしなかった。俺もそれ以上は言わなかった。
「……考えとく」
しばらくして、柚木が言った。
「何を」
「どこまでやるか」
「そうしろ」
「もうちょっと優しく言えない?」
「考えといてね、柚木さん」
「雑な敬語やめて」
柚木は鞄を持ち上げる。その横に置かれた紙束も一緒に手に取った。
「それは?」
「今日受けた分」
「まだあるのかよ」
「今日受けた分だけは終わらせる」
もう引き受けた分まで止める気はなかった。柚木は紙束を抱え直すと、そのまま教室を出ていった。俺も少し遅れて席を立つ。廊下へ出ると、少し先に柚木の背中が見えた。階段を下りて、一度職員室の方へ曲がる。しばらくして戻ってきたとき、手にしていた紙はなくなっていた。代わりに、足取りは朝より明らかに重いままだった。
「終わった?」
「終わったー」
返事だけはいつも通り軽い。
「これで今日の分、全部」
「そうか」
柚木は肩に鞄を掛け直した。仕事はなくなった。疲れは残ったままだ。
柚木は「嫌じゃない」と言った。嫌かどうかだけでは、止める基準にならないらしい。それが一番、たちが悪い。




