第16話 春昼のざわめきと、ほどけない強がり 4
午後の授業は、特に何事もなく終わった。終礼が済むと、教室の空気が一気に動き出す。水瀬は鞄を持つなり部活へ向かい、小坂も別の予定があるらしく、何人かと一緒に教室を出ていった。
「じゃ、また明日ー」
柚木が軽く手を振る。返ってくる声もいつも通りだった。俺はその流れには乗らない。
終礼直後の廊下は、帰るやつと部活へ行くやつがまとめて吐き出される。人が一度に動くぶん、空気も一気に重くなる。窓が開いていても、あの密度では大して意味がない。
机に残ったまま、第一波が過ぎるのを待つ。柚木がその後どこへ行ったのかは見ていなかった。昼に引っかかったものは残っていた。人が減ってから教室を出た。本棟を離れるにつれて、空気から人の成分が減っていく。旧校舎まで来れば、呼吸はかなり楽になる。いつもの廊下を抜けて、最奥の引き戸の前に立つ。
中から話し声がした。桜小路先輩と澄、それから星野。もう一つ、聞き覚えのある声が混じっている。
戸を開けた。
「失礼します」
「慧くん、おつかれさま」
澄が振り返る。
「神崎先輩、お疲れさまです」
星野は座卓の脇で菓子皿を並べていた。その隣にいた柚木が、湯呑みを手にしたまま顔を上げる。
「おつかれー」
「柚木、来てたのか」
「なにその反応。来ちゃ駄目だった?」
「いや」
駄目ではない。ただ、俺が来る前からいるとは思っていなかった。
「自分から来たのかと思って」
「自分からって何」
「澄ちゃんが今日もここ来るって言ってたから、あたしも寄っていい?って聞いただけ」
「うん。玲奈ちゃんから聞いてくれたよ」
澄が補足した。俺について来たわけじゃない。事件があったわけでも、誰かに呼ばれたわけでもない。時間が空いたから、柚木が自分でここを選んだ。
「神崎先輩、そこ立ってると通れないです」
星野に言われて、脇へずれる。
「悪い」
「見てるだけなら座っててください。もう終わるので」
柚木が残っていた菓子皿を持ち上げた。
「玲奈ちゃんが、何か手伝うことある?って聞いてくれたから」
澄が湯を用意しながら言う。
「くるみちゃんと一緒に、人数分だけお願いしたの」
「そういうこと」
柚木が空いた手を軽く上げる。
「来て速攻お茶だけ飲むのもアレかなって」
「別に飲んでてもよかったけどね」
「それはそれで気まずいじゃん」
その返事は、いかにも柚木らしかった。柚木が手にしていた皿を置く。星野も残っていた一枚を並べた。
「澄ちゃん、これで人数分?」
「うん。それで全部だよ」
「りょーかい」
「お前もだいぶ馴染んだな」
「それ、褒めてます?」
「たぶん」
「たぶんなんですね」
星野が不満そうに返す。
今日は香炉も香木も出ていない。香道らしいことを何かする日ではないらしい。桜小路先輩は二人が並べたものを一度見て、穏やかに頷いた。
「ありがとう。二人とも、これで大丈夫よ」
「あ、はーい」
柚木の返事は軽い。桜小路先輩はそのまま続けた。
「せっかくだし、あとは一緒にお茶にしましょうか」
「やった」
柚木はそれで手を止めた。次に何をすればいいかを探さない。他に手伝うことがないかとも聞かない。置き終えた皿から手を離して、そのまま空いている場所へ座った。ほんの数秒のことだった。それが、妙に引っかかった。
澄が茶を淹れる。湯気と一緒に、茶葉の匂いが静かに立った。今日は香木を焚いていない分、畳と木、それから茶と菓子の甘さがそのまま残っている。そこへ柚木の香水が混じる。昼と同じものだ。香りを落としてきたわけじゃない。髪も制服も、話し方も変わっていない。
「これ、おいし」
菓子を口にした柚木がすぐに言う。
「ほんとですね。前のも好きでしたけど、今日のも好きです」
星野も続いた。
「二人とも気に入ってくれてよかったわ」
桜小路先輩はそう言って、自分の手元の資料へ目を落とす。会話はそれで終わらない。星野が一年の教室の話をして、柚木がそこへ乗る。
「まだ移動教室で一瞬迷うんですよね」
「分かる。最初この校舎、地味に罠多くない?」
「旧校舎の方は、慣れるまで少し分かりにくいよね」
澄が笑う。
「そうそう。似た廊下多いし」
「じゃあ私だけじゃないんですね」
「全然。油断すると普通に間違える」
星野が少し安心したように笑う。桜小路先輩も、手元の資料から顔を上げた時だけ会話へ加わった。柚木は普通に笑う。星野へ質問もする。話題が自分に来れば返すし、面白ければ自分から口も出す。
いつもの柚木だ。それなのに、昼とは違う。昼には、慣れていない相手が来る直前まで外向きの自分を整えていた。今は同じ香水のまま、頼まれたことが終われば手を止めている。少なくとも、香水そのものだけでは説明できない。
場所か、相手か、人数か。あるいは、頼まれた範囲と終わりが最初からはっきりしていたからか。候補はいくつもある。今の時点では絞れない。
「神崎?」
呼ばれて顔を上げる。柚木がこっちを見ていた。
「何」
「いや、急に黙ったから。疲れた?」
「別に」
「ならいいけど」
それ以上は聞いてこない。柚木は星野の話へ戻った。俺も茶を飲む。
ぬるくなる前に飲んだ方がうまい。
しばらくして、星野が湯呑みを置いた。
「あの、桜小路先輩」
「なにかしら」
「私、入部したいです」
桜小路先輩の手が止まる。驚いたというより、言葉をきちんと受け取るための間に見えた。やがて、柔らかく笑う。
「ええ。もちろん。嬉しいわ」
「ありがとうございます」
「必要なことは、ちゃんと説明するわね」
「はい。お願いします」
星野が頭を下げる。その横で、柚木が目を丸くした。
「お、決めたんだ」
「はい。この前みたいなのも面白かったですけど」
星野は一度、部屋の中を見回した。香炉も出ていない。特別なことは何もしていない。
「今日みたいなのも、結構好きだなって」
「分かる。お茶おいしいし」
「そこですか?」
「大事じゃん」
柚木が笑い、星野もつられて笑った。桜小路先輩まで少し笑っている。星野が選んだのは、香道の体験だけじゃないらしい。こういう何も特別ではない放課後まで含めて、ここへ来ることを選んだ。そして柚木も今日、自分からここへ来た。同じ部屋にいる理由は違う。それでも、俺がいなければ成立しない集まりではなくなっている。
悪くない。
湯呑みを置く。向かいでは、柚木が星野と話しながら残った菓子を見ている。
昼と同じ香水が、茶の湯気の向こうから薄く届く。違うのは、あいつが自分から引き受けているものの量だ。その量を変える条件は、まだ見えない。




